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2020年6月22日 (月)

敵を騙して倒す兵法三十六計(5分間講話の題材集)

 兵法三十六計のウィキペディアによる解説及びイワン・チェンナムの中国便りの抜粋

 本文中の太字部分は、イワン・チェンナムさんの解説からの抜粋コピーです。

 結論は、歴史は、古来より生存競争は厳しく、賢い人の頭脳を駆使した結果、読むに耐えないほど悪辣な騙し合いであった。正直で、素直で人の良い方は、只管食い物にされるだけと言うことです。邪悪、狡猾、強欲かつ残忍な人類の面目躍如です。

 貴方は、邪悪でないと思うが間違いです。人類の賢さ。ひらめきが邪悪の根源なのです。生死の境では邪悪なひらめきを貴方は実行します。邪悪、狡猾、強欲かつ残酷な人類として生存し、権力闘争に参加する限り避けられない宿命です。これは古来の真実です。

 3分間講話、5分間講話などに適当に選んで使うと便利で博学であると尊敬もされます。

勝戦計

第一計 瞞天過海(まんてんかかい、天をあざむきて海をわたる)

 何食わない顔で敵を騙す兵法・計略を指す。

「備え周ければ則ち意怠り、常に見れば則ち疑わず。陰は陽の内に在りて、陽の対には在らず。太陽、太陰なり。」(備周則意怠、常見則不疑。陰在陽之内、不在陽之對。太陽、太陰。)と規定されている。

 つまり「(人の性質として)準備が周到に整えば(かえって)油断が生まれ、常に目にする事柄には疑いを持たなくなる(これを利用して敵を騙すのである)。陰は、陽の中にこそ存在するのであり、陽の正反対にあるのではない。太陽・月の関係と同じである」という意味である。

 何度も繰り返して、または日常的に、見せかけで物事を行い、敵がその行ないを見慣れて警戒心を懐かなくなるようにし、敵の油断を招く偽装作戦である。

 具体例として、中国の三国時代孫権に仕えた太史慈は若い頃、黄巾党の軍に囲まれた孔融を助けて援軍を呼びに行くことになったが、黄巾軍の囲みが強く突破できないでいた。そこで、自ら弓を持ち、的を持った数騎の兵とともに城外に出て矢を射る稽古を始め、弓の稽古が終わるとすぐ城内に戻った。初めは警戒した黄巾軍だが、太史慈が数日重ねて同じことをするので、やがて疑いを持たなくなった。こうして、敵の警戒心が薄れた頃、太史慈は、城を出て囲みを突破した。

第二計 囲魏救趙(いぎきゅうちょう、魏を囲んで趙を救う)

 共敵不如分敵 敵陽不如敵陰 敵を共にするは、敵を分けるに如かず、敵の陽は、敵の陰に如かず

 敵を集中させるよう仕向けるよりも、敵を分散させるよう仕向けるのがよい。敵の正面に攻撃を加えるよりも、敵の隠している弱点を攻撃するのがよい。

 この策略の出典は『史記』「孫子呉起列伝」。

 当時強盛を誇った覇権国家・と戦った際に、趙は次第に追い詰められ、ついに魏軍に都の邯鄲を包囲されてしまった。趙は同盟国のに援軍を求め、斉の威王はすぐさま田忌中国語版孫臏と共に派遣して趙を救援させた。だが、孫臏は邯鄲に向かおうとする田忌を途中で留めてこう言った。

 「絡まった糸を解くときには無理に引っ張らないほうが良い。闘いから救おうとするなら直接加わってはいけない。要所を突き、虚を突いて、形勢を崩してやれば、糸はおのずから解けていくものだ」

 孫臏は魏本国を攻め都の大梁を包囲することで、魏軍を趙から撤退させ、引き返して来た魏軍を桂陵の戦いで大破して趙を救った。

 このように、敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する戦術を囲魏救趙の計と呼ぶ。 

第三計 借刀殺人(しゃくとうさつじん、刀を借りて人を殺す 

敵已明、友未定、引友殺敵、不自出力、以損推演。

 “敵すでに明らかにして、友いまだ定まらざれば、友を引きて敵を殺さしめ、自ら力を出さず、損を以って推演す。”

 敵が我に対して攻撃意図を明らかにしたときに、同盟国が対応をまだ決定していなかったなら、この同盟国を引きずり込んで敵を攻撃させるよう仕向けよ。我が方の労力を払うのでなく、損卦すなわち山澤損をもって推し進めよ。(同盟国が)喜んで自分のものを差し出させるよう仕向けよ。  

 同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける戦術。敵を討っても自軍の損害は出さないことも目指している。例えば、敵のうちの一国と密かに講和して、交換条件に今までその国が同盟していた他の敵国を背後から奇襲させるというような計も借刀殺人にあたる。

 鄭荘公が、を奪おうとしたとき、まず鄶の臣下のうち勇猛な者、優秀な者の氏名を書き連ねて、鄭が彼らに官位や土地を与えるとした誓約書を捏造した。それを鄶の都の城門の外に立てた祭壇の下に埋め、そこに鶏の血まで撒いて、あたかも誓約の儀式が本当になされたかのように工作した。鄶の君主はこれを見つけて、誓約書に氏名のあがっている者をことごとく殺してしまった。荘公はすかさず鄶を滅ぼした。

 紀元219年、関羽の樊城を攻めた。定軍山の戦いでの大敗から立ち直れていない魏の援軍は撃退され、曹操は遷都を検討するほどの窮地に陥った。ここで司馬懿と蒋済は、関羽の領土を分け合うことを条件に、孫権と同盟することを曹操に献策した。魏と同盟した孫権は、関羽に恨みを持つ糜芳と(傅)士仁を寝返らせて、関羽の本拠地の江陵を占領した。関羽はやむなく樊城から撤退したが、呂蒙の懐柔工作で関羽軍からは離反者が続出。関羽は息子とともに孫権の軍に捕らえられ、ついには殺されてしまった。

 1600年10月21日の関ヶ原の戦いでは徳川家康を中心とした東軍に懐柔された西軍の小早川秀秋戦闘中に西軍を離反したことが勝敗を決定付けた。

第四計 以逸待労(いいつたいろう、逸を以て労を待つ) 

 困敵之勢、不以戦、損剛益柔。

 “敵の勢を苦しめるは、戦いをもってせず、剛を損じて柔を益す。”

 敵の勢いを衰えさせ枯れさせるには、戦闘そのものではなく、損剛益柔によるのである。  

 我が動かないときに敵が動かねばならぬように仕向け、我が少し動くときに敵は大きく動かねばならぬように仕向け、我が主導権を握り敵を振り回すようにして敵の兵員の疲弊と物資の浪費を誘う。

 奇襲急襲が功を奏するときもあるが、すぐに戦闘そのものに入らず、我が方の軍の動きで敵を撹乱して、あらかじめ敵の勢いを削ぎ、我が攻めやすいような弱点を生じさせることを心がけるべきである。

 中国の劉秀(後の後漢光武帝)は新朝皇帝と成った王莽によって簒奪された漢王朝を復興しようと兵を挙げたが、戦乱により大陸全土は荒れ果て、大軍を維持・運用する為の補給線を確立するのは困難であった。

 そこで劉秀は軍団の規律を厳しくし、少数精鋭の兵力を引き連れて敵の領地の中に陣地を築き、ひたすら守りを固めて相手の大軍が兵糧不足で退却を始めるのを待ってから攻撃に移る戦法を多用した。

 少数精鋭の劉秀軍は補給も容易く、常勝無敗で略奪もしないというので各地の人々は次々に劉秀に従った。劉秀が後漢光武帝として即位した後も彼の休民政策は維持され、明帝の時代に後漢の最盛期を築く基礎となった。

 以逸待労が劉秀の由来とされるのは袁宏撰『後漢紀』に拠る。

 AD26年9月、赤眉は再び長安に入り、劉秀の将鄧禹は赤眉と連戦するも敗れ、三輔と呼ばれる長安の周囲は饑えて、人が人を食う状態であった。この時の劉秀の詔勅からである。すなわち袁宏撰『後漢紀』の建武2年9月に「上(光武帝=劉秀)、また鄧禹に詔して命ず『兵を整え堅く守り、困窮した寇賊と鋒を交えるを慎め。老賊は疲弊し、必ず手を束ねる事に成らん。飽を以て饑を待ち、逸を以て労を撃つ。鞭が折れるほど、これにむち打たんのみ』[1]」とある。

 同じく袁宏撰『後漢紀』の建武5年(AD29年)冬には、徐州張歩を攻めていた耿弇が光武帝に上書した内容が記載されている。すなわち『臣(耿弇)、臨淄に拠って塹塁深く、張歩は必ず自ら来たりて臣(耿弇)を攻む。以逸待労、実を持って撃たば、十日ほど間に張歩の首を獲るべし。」[2]と言い、果たして耿弇は攻めてきた張歩を待ち構えて破った。

第五計 趁火打劫(ちんかだこう、火に趁(つけこ)んで劫(おしこみ)を打(はたら)く)

 敵之害大、就勢取利、剛決柔也

 “敵の害大なれば、勢いに就き利を取る。剛、柔を決するなり。”  

 敵の被害が大きいときは、勢いに就いて利益を取る。これは剛決柔、すなわち澤天夬である。

 ※澤天夬は上は澤、下は天の卦。澤から水が天に注ぐ。洪水、上下逆転し革新される様。 

 敵の被害や混乱に乗じる、いわゆる火事場泥棒の計略。敵の国内に害があればその土地を奪い、国外に害(外患)があればその民を奪い、内外に害があれば国ごと奪え、と言う。謀って「火事」を自作自演で引き起こすことも含む。

 春秋期、王は、が凶作の年に、呉王が北方の黄池で諸侯会議に出席している留守を狙って呉を攻撃して大勝した、とされる。

 戦国期、が、と同盟してを攻めようとしたが、が妨害した。その時、が韓を攻めた。斉王は韓に援軍を出そうとしたが、臣下の田忌が、趙や楚が韓を助けるので放置しておくよう諌めた。果たして、趙や楚は韓に援軍を出し、秦、魏、趙、楚、韓の間で戦争になった。その間に斉は一国単独で燕を攻めたが、他国の妨害がないので30日で攻略に成功した、とされる。

第六計 声東撃西(せいとうげきせい、東に声して西を撃つ)

 敵志乱萃、不虞、坤下兌上之象、利其不自主而取之

 “敵の志乱翠にして図らざれば、坤下兌上の象なり。その自ら司どらざるを利してこれを取る。”

 見せかけの行動で相手を混乱させて、別の行動でこれを撃つ。敵の指揮系統が混乱しているときは、敵は情勢の変化に対応できない。これは、洪水により水かさが増して、決壊しそうな堤防に似ている。敵の内部の乱れに乗じて一気にこれを殲滅すべきである。

 攻撃側は、時や場所や時間を自由に選べるため、主導権を確保できる。戦いの原則において、攻撃側に比べて、防御側には“目的の原則”が希薄なのは、主導権が攻撃側にあるためである。防御だけでは、最終的な勝利は得られない。 

 東で声を発してそちらにいると見せかけ、実際は西を撃つ戦術。陽動作戦の一種。敵に対しては弱小のように見せかけて誘い出し、堅強な兵で迎え撃つ。西に領土を広げようとするなら、まず東に進むのが良い。

 後漢末、朱儁が南陽郡の宛で黄巾軍を包囲した際、城の西南で鼓を鳴らさせて黄巾軍を誘い出す一方、朱儁は精兵5千を率いて城の東北を襲い虚に乗じて入城した。

 このように、こちらの動きによって敵を翻弄し、相手の防備を崩したところを攻めるのを声東撃西の計と呼ぶ。

 ただし、この戦術は統率の取れた相手には通用しない。呉楚七国の乱のとき、周亜夫は城に篭って決して打って出ようとはしなかった。呉兵が東南を攻める動きを見せたときも、周亜夫は西北を守らせた。果たして呉兵は西北より攻めかかってきたが、待ち構えていた漢兵によって撃退された。

敵戦計

第七計 無中生有(むちゅうしょうゆう、無中に有(ゆう)を生ず。)

 天下万物生于有、有生于無

 “世の中に有るものは全て無から生じている”

 誑也、非誑也、実其所誑也、少陰、太陰、太陽

 “欺くなり。欺くあらざるなり。その欺くところ実にするなり。少しく陰,はなはだ陰、はなはだ陽なり。”

 まず敵を誑(たぶら)かす。その誑かしに気づかせる。 しかしその本質はまた(別の)誑かしである。 軽い偽装(少陰)の次に大きな偽装(太陰)を仕掛け て最後に総攻撃(太陽)を加える。  

 まず無=虚を示して敵を欺き、その後に有=実を用いて攻める戦術。

 最初に、敵が本気にするような、はったり、偽装を敵に示して欺く。次に、それがはったり、偽装であることを敵に気づかせる。仕上げに、再び同じ手段を敵に 示しても、敵は油断して反応しない。ここで一気に攻撃して敵を破る。童話「オオカミ少年」の心理を策略としたものと言える。

 孔融黄巾賊の残党に包囲された際、孔融の将太史慈は自らは馬にまたがり弓を持ち、従者には的を持たせて城の外に出た。そして的を射ると戻る、ということを行った。最初は警戒していた黄巾賊も、これが何度も行われるに及び、大して興味を持たないようになった。そうして油断しきった中、太史慈は突如馬 を駆って包囲を突破。劉備に救援要請を行い、援軍を引き連れて戻った。この軍を見た黄巾賊は撤退し、孔融は窮地を脱することができた。

 孫堅劉表の江夏城を攻めたとき、その守りが硬いので一計を案じ、城の軍の矢を消費させることも狙って、夜毎にかがり火をかかげた小船の大群で城に接近してみせる策を取った。

 城主黄祖は毎晩、火矢を使って反撃し孫堅の軍を撃退したつもりになっていたが、7日目にして、小船は兵が乗っていない空の船であることに気がついた。その次の夜も、城に接近してくる小船の大群があったが黄祖の軍は反撃せず眺めていた。ところが今回は多数の兵がひそかに乗船しており、一気に城を襲撃。江夏城は落城した。

 会議において自分の意見を通すためには、二人以上の自分のシンパを会議に参加させておかなければならない。会議において、二人以上の強硬な同調者がいればその意見は必ず通る。-毛沢東語録

第八計 暗渡陳倉(あんとちんそう、暗(ひそ)かに陳倉に渡る )

 陳倉は地名である。

 示之以動、利其静而有主。益動而巽。

 “これに示すに動をもってし、その静にして主あるを利す。益は動きて従う”

 自軍の行動をわざと見せることで、敵軍にその行く手に防御を堅めさせ、密かに別方向から奇襲攻撃をかけて、勝利を収める動きを増幅して(益(ま)して)、それに乗じる(巽(したが)う)、すなわち風雷益の象である。

風雷益は雷鳴の轟く象。風が上にあり雷の勢いを増す。 

 本来は「明修桟道、暗渡陳倉」(めいしゅうさんどう、あんとちんそう)という。僻地の蜀から関中へ出るには桟道しかないと信じられてきた。しかも桟道は200年かがりで構築されたもので劉邦の指示で燃やしてしまった。

 定石どおりに、大々的に「蜀の桟道」を修理しながら、その裏で密かに軍に陳倉を経由させて関中の章邯を奇襲した韓信の故事にちなみ、偽装工作と奇襲をあわせる戦術をいう。

 韓信は陳倉からの出口を教えた農民を秘密が漏れることを恐れ殺害している。韓信は将軍の資質として殺すべき時に殺すことができることを挙げている。なお「蜀の桟道」は現存しており、全長は200kmを超える。

 暗渡陳倉は、声東撃西と似ているようであるが、声東撃西では攻撃開始は敵にむしろ知られるべきであり、複数の目標への攻撃によって真の攻撃目標を敵に悟らせないことに主眼があるのに対して、暗渡陳倉では偽装工作にあたる「明修桟道」により、攻撃開始自体を敵に悟らせないことに主眼がある。

 秦滅亡後の紀元前206年、劉邦項羽から、漢中(現・陝西省)に封じられた。劉邦は、項羽の拠点関中へ進軍する意図がないことを誇示するために、秦嶺山脈の褒河に沿った断崖絶壁にある木造橋梁の街道、通称「蜀の桟道」を焼き払った。

 劉邦の臣下となった武将の韓信は、項羽が反乱平定のため各地を転戦するようになったのを好機として、敵に知れるように「蜀の桟道」を目立つ大人数の人夫で修理するのとあわせ、密かに山脈を大きく迂回し、陳倉から旧道を利用して関中を奇襲するという作戦を献策し、実行に移した。

 敵将章邯は、長大な「蜀の桟道」を修理しているはずの劉邦軍は、来るにしてもかなり先だろうと油断していたが、突然の攻勢に次々と城を破られた。その勢いのまま韓信は、章邯軍のみならず他の項羽側の武将も滅ぼし、関中を掌握して劉邦の天下統一、の建国のさきがけとなった。

 また韓信は、魏を攻めるにあたり、敵軍が船着場の対岸を徹底的に防衛しているのを見て、船を多数並べて敵を引きつけた。その隙に主力を密かに上流側に回らせ、木の桶と棒や槍で作った即席の筏で河を渡り、魏の都を攻めた。韓信の見立て通り、魏軍のほとんどが河で防衛にあたっていたため、魏の都はあっさり落ち、魏王を捕らえて降伏させた。

 失敗例として、三国時代姜維が、鄧艾に陽動を見破られて撃退された例が挙げられる。鄧艾軍と交戦していったん退却したはずの姜維軍がまたすぐ進軍してきて、河をはさんで布陣したまま動かないで待っていた。それがまるで攻めてくれと言わんがばかりの不自然さであったため、怪しんだ鄧艾がすかさず拠点の洮城に取って返したところ、姜維の本隊がのこのこ攻めて来たのでこれを迎撃した、とされている。

第九計 隔岸観火(かくがんかんか、岸を隔てて火を観る)

 陽乖序乱、陰以待逆。暴戻恣睢、其勢自斃。順以動豫、豫順以動。

 “陽はなれ秩序乱るれば、陰をもって逆を待つ。暴戻意識は、その勢い自ら倒れん。順もって動くは予なり。予は順以って動く。”

 敵の内部で離反が起きて序列が乱れていることが明らかとなったなら、退いて異変が起きるのを待て。暴戻恣睢(ぼうれいしき:横暴で残忍な様)であれば、その勢は自ら斃(たお)れる。「順(じゅん)を以って動くならば豫(よ)、豫(よ)ならば順(じゅん)を以って動く(易経豫卦)」状況に順応して動こうとするならば、あらかじめ慮った上で慎重に備えをせよ。そのようにするからこそ、状況に順応して動くことができるのだ。

※「順以動豫、豫順以動」は豫卦、すなわち雷地豫(らいちよ)の象。

 敵の秩序に乱れがあれば我は放置して敵の自滅自壊を待つ。こちらが攻めずに放置すれば、敵は団結する理由を失い、内紛の火種は大きな火事となる。また、隔岸観火の語は、火攻めの極意を示しており、孫子の「火攻篇」の趣旨と同じだとも言う。

 袁尚袁煕曹操に敗れて東の公孫康の下に敗走したが、臣下が攻めるように勧めたにもかかわらず曹操はそのまましばらく放置した。すると公孫康は袁尚、袁煕を斬って、首を曹操に送ってきた。曹操がこれを予言していたので、将軍たちが曹操に理由を尋ねたところ、「こちらが攻め立てれば彼らは同盟協力しあっただろうが、追いつめずに放っておけば、互いに疑心暗鬼となる。その結果、こうなるのは明らかだ」と答えた(三国志)。

 中国春秋時代の宰相趙盾とともに晋から離反したを攻めた。の大臣鬬椒は鄭へ救援に向かい、「楚王はこれから諸侯を帰服させるのに、配下の私が諸侯の難儀を見捨てることが出来ようか」と言って、陣を構えて決戦を挑んだ。鬬椒の豪勇を知る趙盾は「彼の一族は楚で盛んであるのでやがて滅びる。しばらく驕らせておこう」と言って兵を退いた。

 果たして後年、鬬椒は荘王の謀臣蔿賈を幽閉して殺し、叛乱軍を起こして荘王に鎮圧された。鬬椒・蔿賈という優れた武将を二人も一挙に失ってしまった荘王は、以降の重要な戦いでは常に自らが先頭に立って軍を率いねばならなかった。

 後年、荘王が臣下に国事を諮ったところ、誰一人自分よりも優れた意見を出す人物が居なかった。荘王は嘆息して、「どのような時代にも聖人はおり、どのような国にも賢者は乏しくない。真の師を見いだして臣下にすることが出来た者は王となり、友となる資格のある者を臣下に出来れば覇者となれる、と聞いている。私は特別優れているわけでもないのに、その自分に及ぶ者がいないとなれば、楚の国の将来はどうなるのか」と言った。居並ぶ群臣は、返す言葉もなかったという。結局荘王の死後、楚は天下の覇権を晋に奪われることになる。

出典は『呉子』。

 このように、敵が内側に火種を抱えている場合に、それが燃え盛って敵が自滅するのを待つ戦術を隔岸観火の計と呼ぶ。

第十計 笑裏蔵刀(しょうりぞうとう、笑裏(しょうり)に刀(かたな)を蔵(かく)す)

 “信にしてこれを安じ、密かにもってこれを図る。備えて後に動き、変あらしむことなかれ。中を剛にして外を柔にするなり。”

 表面上は友好的な態度を装っておいて、敵の警戒心を解き、密かに妥当の策を練る。十分に準備を整えてから行動し、自軍の真意は見破られてはならない。闘志は内に秘めて、外見は柔和に装う。

 敵を攻撃する前段階として、まずは友好的に接近したり講和停戦して慢心させる作戦を指す。

 『孫子』「行軍篇」は「謙虚な言葉遣いでありながら軍備を増しているものは、進撃するつもりである。突然に講和を申し込んでくるものは、謀略である」と言う。 

 蜀関羽は、呂蒙を大変に恐れていたが、呂蒙は後任に陸遜を指名すると、病と称して呉の都に引き上げた。陸遜は、関羽にその武勇を褒め称えるとともに自分は弱卒にすぎないと謙遜する挨拶状を送りつけ、領内の運営も呂蒙よりもことさら下手に行った。関羽はこれを見て安心し、樊城攻略に全兵力を投入してしまった。そこで呂蒙は、すかさず密かに軍を率いて関羽の本拠地である江陵を攻め落としたのだった。

 建国間もないは、582年に北周の代から争っていたと、陳の宣帝の死去に伴って講和を結んだ。隋の弔問に対する陳の返書は非常に驕慢なもので、隋の文帝(楊堅)はこれに怒ったが耐えて笑裏蔵刀の計を仕掛けることとした。

 陳の城主が隋に投降を申し出ても断り、陳の間諜を捕らえても衣馬を与えて陳へ送り返すほど、義理立てをして媚びを売り、酒色に溺れ奸臣に政治を牛耳られていた陳の後主(陳叔宝)をすっかり欺いた。同時に、江南の収穫期にあわせて、隋の人馬を動員した上で「隋が進軍する」と噂を流すことを繰り返して、収穫期に陳の人馬が動員されるよう仕向けて陳の農業生産を妨害し、かつ隋の軍の動員に対して陳が無反応になるよう工作した(無中生有)。

 隋が後梁を滅ぼした587年には公然と戦艦の建造を行ったが無中生有が効いており陳は防備を固めることも無かった。満を持して、588年3月に、文帝は、突如、後主の罪科二十条を挙げた討伐の勅をして、その写し30万部を江南一帯にばら撒いて宣伝した上で陳への攻撃を開始した(混水摸魚)。陳は一部勇戦するも将兵の投降が相次いで589年に滅亡した。(資治通鑑) 

 宋代、渭州の知事曹彬が、客と将棋をしているとき、数千人の反乱兵が西夏との国境に向けて逃走した。国境警備の騎兵の報告を受けて、居合わせた諸将は茫然自失になったが、曹彬は変わらず談笑していた。そして、おもむろにその騎兵に「それはわしの命令だ。そのほうは騒がなくてよい」と答えた。西夏はこれを伝え聞いて、西夏に向かっている反乱兵は攻撃兵であるとみなし、ことごとく殺してしまった。(宋史:本件は按語に例示されているが曹彬が西夏に攻撃を仕掛けるために自称反乱兵を用いたという話でないのであれば、これはむしろ借刀殺人隔岸観火反間計である)

第十一計 李代桃僵(りだいとうきょう、李(すもも)が桃の代わりに僵(たお)れる) 

 “勢いは必ず損あり。陰を損ないてもって陽を益す。”

 戦局の情勢如何によっては、戦術的には負けを装い、戦略的な勝利を得ることが大切である。小異を捨てて大同につく。目先の小さい戦いにおいては負けても、将来の大勝利のために頑張る。勝利のために小さな犠牲を払う覚悟が大切である。

 桃(高い価値がある果実)の木を守るために、李(桃より価値が低い果実)の木が倒れる。
損害を受けざるを得ないときには、不要な部分を犠牲にして、全体の被害を少なく抑えつつ勝利するように図る戦術のこと。

 史記の孫子呉子列伝に団体競馬戦必勝法が載ってます。

 田忌が斉の公子たちと金を賭けて馬車を競争させて楽しんでしました。孫臏が見たところ「馬足の甚だあい遠からず、馬に上・中・下の輩あるを見る」という状態でした。

 孫臏は、田忌に「君、ただ重射せよ、臣、よく君をして勝たしめん」と言って、次の策を授けました。そこで、田忌は、「王及び諸公子と千金を逐射す。」、要するに賭けたのです。

賭けに望んで孫臏が授けた策は、次のようなものです。

孫子曰く、「今、君の下し(馬偏に四)をもってかの上しに与せよ。君の上しを取りてかの中しに与せよ。君の中しを取りてかの下しに与せよ。」

この結果、田忌は、「ついに王の千金を得たり」となりました。この件により、田忌は孫臏に惚れ込み斉の威王に推薦の労をとり、軍師に任用されたとのことです。

この仕組みは、以下のようなものです。

相手       当方     結果
Aランク     Cランク     負け

Bランク     Aランク     勝ち

Cランク     Bランク     勝ち

この結果、2:1 で貴方は勝ちますと言ってます。少なくとも勝利する確率は高くなります。

団体戦に大将と大将が戦うなどは、史記(孫臏)流に言えば愚の骨頂なのです。 

 これを実戦に置き換えると、勝てない戦いを挑ます捨て駒も必要ということを教えています。捨て駒にされた軍人には、ツライことです。このようなことが情に流されることなく冷静にできなくては戦いに勝てないということです。

 全軍一丸となり、散る桜、残る桜も散る桜という気持ちになれるかが戦いの鍵になります。しかし、国家のリーダー達の我が身大切、利益誘導政治をこれでもかこれでもかと見せられては、到底そのような気にはなれないものです。

 上の孫臏の話は競馬で田忌に例示したのだが、北宋の蘇洵の「権書」などで解説されているように、真意は軍事の計略を示すものである。すなわち、敵の上軍には己の下軍をあて、敵の中軍には己の上軍をあて、敵の下軍には己の中軍をあてる。このようにすれば、己の下軍は犠牲となって敵の上軍に屠られるが、全体では我軍が二勝一敗となって最終的に勝利する結果となると言うものである。

 ハンニバルカンナエの戦いで、敵の中央突破に備え、中央には弱兵を置いて層を厚くし、その左右に強兵を置いた。果たして中央で敵を食い止めている間に、味方の強兵が左右の敵を蹴散らし、更に別働隊の騎兵が後ろに回りこみ包囲が完成。敵は大混乱に陥り、2倍の敵を殲滅する大勝を収めた。

第十二計 順手牽羊(じゅんしゅけんよう、手に順(したが)いて羊を牽(ひ)く)

 “微隙(びげき)のあるは必ず乗ずる所なり。微利のあるは必ず得る所なり。少しく陰、少しく陽。”

 相手の失敗に付け込んで、勝利を収める。敵には必ず隙がある。それを見つけて、無ければ作り出してでも、いかなる敵の隙にでも付け込むことが、勝利の道である。敵の僅かな隙を見逃さずに、僅かな勝利を確実に得ていく事が、最終の勝利につながる。

 羊の大群から羊を一匹盗んだ者が、堂々と羊を連れて行ったため誰も咎めなかったことに由来する。転じて、組織が大軍になるにつれて統制の隙が生まれることを突く作戦や、敵に悟られぬように細かく損害を与えてゆく作戦を指す。

 例えば、敵の部隊が森林など急いで通過する際にあわせて伏兵を置き、音を立てさせぬようにして敵の隊列の最後尾から一人ずつ襲って敵の数を減らしていく戦法や、敵が市街地の掃討のために小隊に分かれたのに対して、これを待ち伏せてひとつの小隊ずつ敵の中枢に気づかれないよう殲滅してゆくような戦法もこれにあたる。 

 383年、前秦苻堅は90万と号する大軍で東晋攻撃を開始。東晋は寿陽城を奪われるなどして窮地に陥った。寿陽城下の淝水をはさんで東晋軍と秦軍は布陣していたが、東晋の謝玄は「雌雄を決する度胸があるのなら、東晋軍を渡河させて決戦せよ」と使者を派遣して前秦を挑発した。諸将は挑発に乗ることに反対したが、苻堅は、渡河の途中の東晋軍を殲滅すればよいとして、東晋軍の渡河を認め自軍をわずかに後退させることにした。

 しかし、東晋軍が渡河を始めるにあわせて、(東晋に内通していた)前秦軍の朱序が「我が軍は敗れたぞ」と大声で陣内に触れて回ったため、前秦兵は、反撃を受けずに平然と渡河して来る東晋兵の姿を見て、我先にと逃亡を始め、収拾がつかない大混乱となった。東晋はこれを攻めて大勝をおさめた。

814年に李光顔李愬は節度使の呉元済を討伐するよう命じられた。

 李愬は命令を受けたあと、偵察を行いながら、「自分は弱卒であり呉元済を討つことが目的でなく治安回復のみが任務」と宣伝して回った。呉元済は彼を監視していたが、結局李愬を攻撃軍でないと判断してその活動を見逃すようになった。

 李愬は、数年かけて工作を行い、呉元済の部下の丁士良呉秀琳李忠義などを徐々に離反させた。817年、李光顔が大軍で呉元済軍を攻撃。呉元済の蔡州城からは主力が進発したため手薄となった。そこで風雪の日、李愬は蔡州城を夜襲して呉元済を捕縛、長安に連行して処刑した。

攻戦計

第十三計 打草驚蛇(だそうきょうだ、草を打って蛇を驚かす

 “疑わばもって実を叩き、察して後に動く。復するは陰の媒なり。”

 草むらの中では不意に棒で草を払ったりすると蛇を驚かせる、つまり何が出てくるかわからないということ。不用意・不必要な行いは逆に思わぬ対抗措置を招くことがあるという戒めで、日本では藪蛇(やぶへび)ともいう。これが転じて、戦地の状況がよく分からない場合には偵察を出して反応を探るという意味で用いられている。

 『孫子』「行軍篇」においても、軍団の近くに険しい地形や池・窪地・山林・草木の繁茂した場所があれば慎重かつ入念に偵察するようにせよと伏兵に対する警戒を呼びかけている。

第十四計 借屍還魂(しゃくしかんこん屍を借りて魂を還す)

 “用うる者は借るべからず。用うる能わざる者は、借るを求む。用うる能わざる者を借りてこれを用うるは、我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む。” 

 他人の力に頼らず、才能が有るものは、こちらの意のままに扱うことは出来ない。逆に、他人の力に頼り、才能のない者は、向こうから助けを求めてくる。才能のない者を利用する時には、当方から頼むのではなく、相手が、頼みに来るように仕向けて、恩を売って思いのままに利用すればよい。

 亡国の復興などすでに「死んでいるもの」を持ち出して大義名分にする計略。または、他人の大義名分に便乗して自らの目的を達成する計略。さらに、敵を滅ぼして我が物としたものを大いに活用してゆく計略も指す。

 由来は、中国の八仙の一人、鉄拐李(鉄拐の李)の伝説。彼はもとは李玄という仙人だったが、幽体離脱している間に彼が死んだと思った弟子に体を火葬されてしまい、他人の死体に戻って復活して名を鉄拐李と改めたという話[1]

 捕虜となった敵軍を助命して利用するケース、攻城戦の最前線で堀を埋める作業を行わせたり、野戦において督戦隊を使って強いて突撃させ敵の前線と捕虜が交戦を始めるや敵ごと弓射するというような戦術が借屍還魂に当たる。

第十五計 調虎離山(ちょうこりざん、調(はか)って虎を山から離す)

 “天を待って、以ってこれを苦しめ、人を用いて以ってこれを誘う、往けば悩み、来れば返る”。

 自分が有利な条件のときは、これを利用して相手を苦しめ、相手の好みを利用して誘き出し、攻撃に危険があるときは、誘き出して、わざと自分の有利な条件のところに攻めてこさせるように仕向けて勝ちを得る。相手の有利な立場から、自分の有利な立場に移して戦う。

 『孫子』に「城攻めは下策である」と書かれているように、敵が有利な地形にいるところに出向いて戦うのは、自ら敗北を求める愚行である。このような場合、敵を本拠地から誘い出し、味方が有利な地形で戦うようにすることが望ましい。これを調虎離山の計と呼ぶ。 

 漢代末期、が反乱し武都の一帯を荒らした。虞詡が平定に向かったが、羌の大軍に行く手を阻まれたので進軍を止めた。そこで虞詡は「上奏して増援を要請し、増援が到着してから出発する」と宣伝した。

 羌はこれを伝え聞いて大軍の密集を解き、分散してさらに近県を荒らして回った。頃合を見計らって虞詡は武都に向けて行軍を再開し、増援など実際には送られていなかったのだが、留まったときに兵士一人当たりに作らせる釜場の数を日増しに倍増させていった。

 羌族は虞の軍の釜場の数を探って、増援部隊が続々と到着して兵員が増えているのだと信じてしまい、攻撃を仕掛けてこなかった。虞詡はまんまと武都に入城することに成功して、最後には羌の反乱軍を撃破した。

 井陘の戦いにおいて、劉邦の武将韓信は趙の砦を攻める際に、川を背後にするように布陣して敵を砦から誘き出した。これが後世に名高い「背水の陣」である。韓信は兵士に退けば川に溺れて死ぬことになると思わせることで必死の力を引き出し、趙軍の猛攻を防がせ、その隙に別働隊を以て空城となった趙の砦を攻め落とさせることで勝利を得たのだという。

 しかし、本来自ら退路を断つのは愚計・奇策であり、死兵が強いのも一瞬に過ぎない。ここで本当に重要なのは、背水の陣をしくことで趙軍に殲滅の好機と思わせ、趙軍にとって有利な砦から引き離して野戦に持ち込んだ点である。まさに、韓信の調虎離山の計の勝利であった。

第十六計 欲擒姑縦(よくきんこしょう、擒(とら)える事を欲するならまず逃がせ)


 “迫れば即ち兵を返さる。走らしめれば即ち勢いを減ずる。固く随いて迫ることなかれ。その気力を疲れしめ、その闘志を消し、散じて後捉えれば、兵刃血塗らず、光あり。”

 敵の逃げ道を断って攻め立てれば必死に抵抗し、逃げるに任せれば、そのうち力を失ってしまう。敵をとことん追い詰めてはならない。敵の疲れを待って力が分散したところを待って捕獲すれば、我の損害も少なくして勝利を得ることが出来る。 

 もし敵と十分な戦力差が無いならば、窮鼠猫を噛む事態を避けねばならないので、敵をわざと逃がして気が弛んだところを捕えるのが良い。追いすぎれば敵は踏みとどまって必死に反撃するが、逃げ道を与えてやればそちらに向かって逃げようとする。

 敵を追い詰めてはならない。敵の闘志を殺ぎ、力を失わせてからであれば容易くこれを捕えることができる。『孫子』ではこれを「窮寇は追うなかれ」と表現しているのがこの事に当たる。

 「姑縦」とは、敵を自由にして以後あずかり知らないという趣旨ではなく、敵の動きを捕捉しつつも急迫しないという意味である。『三国志』において軍師である諸葛亮は雲南征伐の際に南蛮王孟獲を捕えては逃がすことを繰り返しながら進軍し、七度目に逃がされたときについには孟獲も諸葛亮に心服した(七縦七擒の故事)。これは孟獲を容易く破ってみせることで武威を現し、解放してみせることで寛容性を示して南蛮一帯の諸族を一気に心服させたものであり、兵法ではない。

 軍事的には、そもそも諸葛亮には、孟獲を追跡して占領地を拡大する目的があった。すなわち、分散している敵を集合させて包囲殲滅を狙ったり、あるいは逆に敵を分散させて戦闘単位を細分して各個撃破を狙ったり、もしくは本拠地を特定しようとする目的があってはじめて「姑縦」するのであって、原則としては捕虜を意味も無く再び放ってはならない。

 呉の楚侵攻で、呉軍が楚軍を破り清発川に追い詰めたところで、呉の孫武は追撃の手を緩めさせた。「今追い詰めれば敵は死狂者となって戦う。しかし半分が川を渡るまで待てば、その半数は戦えず、残りの半数もなんとか逃げようとして戦わない」と見てのことであり、そのとおりに呉軍は大勝した。

第十七計 抛磚引玉(ほうせんいんぎょく、磚(レンガ)を抛げて(投げて)、玉(宝石)を引く) 

 日本の「海老で鯛を釣る」とほぼ同意である。

 “類を以ってこれを誘い、蒙を撃つなり。”

 紛らわしい類似のものを使って敵を惑わせて、敵の思考が混乱したところに乗じて攻める。

 本来、「抛磚引玉」は、唐代の詩人、常健の故事にちなみ、自分がまず未熟な意見を述べたり、つたない作品を見せたりして、それに釣られて他人が自説を語ったり、詩作を行ってしまうよう仕向けることを言う。転じて、自分にとっては捨ててもよいものをとして、敵を誘き寄せる作戦を指す。 

 紀元前700年、楚が(国名)を攻略しようとしたとき、絞軍は篭城した。そこで楚の屈瑕は王に、兵士を「きこり」に扮装させて絞の山地の木を切らせて絞軍をおびき出すよう進言した(きこり=自軍兵士=磚)。

 絞軍に捕縛されても連日のように「きこり」を繰り出して挑発し続けたところ、6日目にして絞の大軍が城から出て来て、逃げる「きこり」を追いかけた。楚は伏兵を置いてこれを撃破した。

 紀元690年、契丹孫万栄は、唐軍の捕虜を劣悪な環境で抑留した後に返還した(捕虜=磚)。

 唐に戻った捕虜たちは思惑通り「契丹軍は食料が不足しており士気が低下している」と報告した。唐軍がこれを好機と見て進軍して来るのを、契丹軍は断崖絶壁に囲まれた西硤石谷に伏兵を置いて撃破した。さらに、ここで捕縛した唐の指揮官から印を奪い偽の報告書を作成して後続の唐軍をおびき寄せると、同じく西硤石谷で唐軍を襲撃して大勝を収めた。

第十八計 擒賊擒王(きんぞくきんおう、賊を捕えたければ、王を捕らえるべし)

 敵を虜にしたければ、その王を捕らえるべきである(そうなれば敵軍はただの賊と同じだ)

 敵の主力を叩き、指揮官、中心人物を捕らえられれば、(末端の部隊といちいち交戦せずとも)敵を弱体化できるという、攻撃目標選択の妙と、効果判断の重要性を教える計略。 不良の喧嘩で、まず敵のリーダー格をボコボコにする作戦と同じ。 

 この語は、の詩人杜甫(とほ)の「前出塞(ぜんしゅつさい)」にある「射人先射馬 擒敵先擒王」(人を射んとすれば先ず馬を射よ、敵を擒えんとすれば先ず王を擒えよ)が出所である。

 唐の玄宗はしきりに出兵し、各所での戦いも長引くことが多く、兵士も民衆も疲弊していた。それに対し「前出塞」は、敵の指揮官など要点を突けば消耗を少なくして目的を達成できる。そういった戦略戦術もなくいたずらに攻めるだけでは、敵味方の死傷者が多くなってしまう、という歌である。

 自軍が攻め勝って優勢にあるときに、戦利品を奪うことに気を取られて、敵の精鋭部隊や首魁を始末することを忘れるなら、虎を自由にして山に帰すようなものである。敵軍の旗の位置ではなく、その動きを見て、敵の主将の位置を判断しなければならない、とされる。なお、本来の語は、「射人先射馬 擒敵先擒王」であり、将自身を捕らえずとも、その手足となっている副官級の人々を捕らえるという方式(射人先射馬)もあわせて示している。 

 唐代、安禄山の乱の鎮圧軍の一将であった張巡は、まず敵の本陣にまっすぐに突撃して敵を混乱させ、五十人あまりの敵将、五千人あまりの敵兵を斬殺しまくったが、敵の主将尹子奇の顔が分からなかった。そこで張巡は、よもぎの幹で作った矢を打たせた。

 この矢に当たった敵兵が「張巡の軍は矢が尽きてよもぎを矢としている」と喜び勇んで尹子奇のもとに報告に駆けつけたところを、すかさず南霽雲が尹子奇の左目を射抜いた。重傷を負った尹子奇を捕らえようと張巡の兵は彼に向けて殺到する。尹子奇は堪えられずその場から敗走。敵軍は退却した。

 他にも、斉の孫臏が魏との戦いでわざと逃走しているように装い、好機と見た魏の将軍龐煖が僅かな手勢だけで追撃してきたのを待ち伏せて殺害した事や、秦の商鞅が敵の将軍と旧知の仲だったため、「戦わず会って気持よく分かれよう」と誘って捕縛したことなどがある。これらにより指揮官を失った軍は混乱し蹴散らされることになっている。

 逆に首魁を取り逃がしたが故に敗北を喫した例も多数あり、呉の伍子胥が楚の都を落としたものの楚王を捕らえられず後の再興を許したり、呉王夫差が越王勾践を捕らえても許し、後に復讐されたことなどがある。

混戦計

第十九計 釜底抽薪(ふていちゅうしん、釜底の薪を抽(ぬ)く)

 」。北斉魏収の文「抽薪止沸, 剪草除根」が由来とされる。同義語、断根枯葉(だんこんこよう)。

 釜の水を沸かせるのは薪の火力であり、燃料の薪を引き抜いてしまえば、沸騰は止まる。

 “その勢いに敵せず、しかして、その勢いを消しむるは、下手から上を攻めることが肝要である”

 敵が強力でまともに戦っても勝てないときは、敵の力の根源を見極めて、その要点の戦力の損耗を図ってから、戦えば勝ちを収められる。

 どこを抑えれば、敵の釜の沸騰を沈められるかを探し出すことが重要である。まさに、敵の弱点を見つけて攻撃することである。
敵の弱点は、時間、場所、人、物等様々である。

 兵站、大義名分など敵軍の活動の源泉を攻撃破壊することで、敵の活動を制し、あわよくば自壊させんとする計略。懐柔や脅迫で、敵軍の個々の勢力を離反させることや、将兵を離間して兵士の逃亡を促して、敵の勢力を削ぐことも含む。徒に正面攻撃を行わず、まず致命的弱点を探してそこを討てという意味もあわせている。

 紀元3世紀、いわゆる「官渡の戦い」で、前半、10万の袁紹の軍に対して少数精鋭の曹操はよく戦ったものの、袁紹が豊富な兵糧をたのみに持久戦術に切り替えたため、人数物量で劣る曹操軍は窮地に立たされた。

 ここで、袁紹の配下だった許攸は、袁紹に家族を刑死させられたため、曹操側に降って、袁紹軍の兵糧基地は烏巣にあってその守備は貧弱なことを教えた。すかさず曹操は5千の手勢を率いて烏巣を奇襲。袁紹の兵糧をごっそり奪い、運べぬ残りは焼き払ってしまった。

 曹操が烏巣を攻めたことを知って慌てた袁紹の配下は、烏巣を守備していた淳于瓊を救援する案と曹操の本陣を攻撃する案とで割れた。袁紹は、淳于瓊救援を主張していた張郃高覧の二将を、懲罰的に曹操の本陣攻撃に振り向けたが、彼らは本気で戦わず、仕舞いには曹操に投降してしまった。さらに、淳于瓊救援軍も曹操に撃破されて、烏巣の兵糧を失った袁紹軍は崩壊した。

 翌年、袁紹は、再び曹操を攻めたが多勢に無勢のためあっさり敗退して、翌々年、失意のうちに没した。袁紹の息子たちは、公孫康(こうそんこう)を利用した曹操の計略(隔岸観火の例とされる)によって根絶やしとなり、華北は魏が掌握することとなった。

第二十計 混水摸魚(こんすいぼぎょ、水を混ぜて魚を摸(と)る)

 水をかき混ぜて泥水にして魚が混乱しているときに、その魚を狙って捕まえるという意味。敵の内部を混乱させて(混水)、弱体化したり、作戦行動を誤らせたり、我の望む行動を取らせるよう仕向ける戦術。趁火打劫を主に敵の外患に乗じて攻めることを主眼にすると解すれば、混水摸魚は敵の内患を作出してそれに乗じるものとも言える。

 “その陰乱に乗じて、その弱くして主なきを利す。隋は以って日暮に向かえば入りて宴息す”

 敵に内部の混乱を起こさせて、戦力が低下し指揮の乱れたところに付け込めば、思い通りの作戦が出来る。夕方になれば誰でも家に帰って休むように、予測どおりの全く無理のない方策がとれる。

 曹操がある敵国を攻めたときに、兵站が尽きたため、撤退か又は最後の総攻撃かの決断を迫られた。大方の武将の意見は、撤退して態勢を整えてから再起を図ることが良いとのことであった。

 しかし、あえて、曹操は“混水模魚”の策をとることにより、兵站が尽きる前に、最後の決戦に臨んだ。そのために、自軍の兵士に敵軍の軍服を着せて、敵陣に向かわせ、敵に援軍の来援と思わせて、敵陣に入り込ませた。

 そして、敵陣内に火を放った。敵兵は、火消しと曹操軍の対応の二手に分散させられると共に、火の手で視界が遮られて思うような戦いが出来ず、曹操軍に敗北した。 

 六韜』に「全軍の兵が動揺して、兵の心が一つにまとまらず、敵が強力であることを恐れ、戦争をするのは不利だと語りあい、互いに聞き耳を立て盗み見をして、噂話がやまず、互いに惑わし、法令が守られず、将軍が軽んじられているならば、その軍が弱い証拠である」とある。間者(反間計含む)を使って宣伝して人心を混乱させてこのような状況に敵を追い込んでから叩くことを狙う。

 なお、この過程は直接の戦闘行為を目標に限らなくてもよく、劉備が、呉姫(孫尚香/孫仁)を娶ったり、故意に複雑な条件で交渉したりすることで、孫権を煙に巻いて、荊州の租借地を広げて西川も奪ったことなども、この混水摸魚の計の例だとされる。 

 明代、寧王の朱宸濠が反乱した(寧王の乱)。鎮圧を命ぜられた王陽明は、準備が整わないので一計を案じて、寧王の配下の李士実と劉養正に宛てて「君らの国に対する忠誠を了解した。寧王がいったん城を離れて戻ったときには大事は成功している」と書いた親書を偽造し、捕らえていた朱宸濠の間者に対し、獄の看守を寧王派と詐称させて接近させて、その間者に親書の内容を漏らした上で、寧王の下に逃走させた(反間計)。

 李士実と劉養正は、早く南京を占領して皇帝を称するよう寧王に進言していたが、逃げてきた間者の話を聞いた寧王は疑心暗鬼となり躊躇して動かない。このとき、南京に鎮圧軍はまったく集まっておらず占領の好機であったが、結局、寧王はこれを逃すこととなった。そして、その間に軍備を整えた王陽明により寧王は滅ぼされてしまった。

 明末、袁崇煥は辺境の軍を整備して、南進する(後金)をよく撃退して、邵武県知事から兵部尚書兼、右副都御史まで出世した。1630年、清が迂回策をとり薊州を越えて西進すると、袁崇煥は、北京防衛のため広渠門外に陣を置いた。ここでホンタイジは間者を放って激しく工作し混水摸魚を仕掛けた。

 その結果、北京では、袁崇煥が清を先制攻撃せず北京に布陣したのは不自然だと庶民が噂し合い、宮廷では、かつて袁崇煥がヌルハチの死後の直後にホンタイジと使者を交わして講和を打診したことを蒸し返して、「袁崇煥は内通者だ」と讒言して騒ぐ宦官が出るような状況となった。

 この頃合を見計らって清は袁崇煥に使臣を送ることまでした。ついに崇禎帝は疑心暗鬼に耐えられず、袁崇煥を磔刑とした(借刀殺人)。果たして、辺境防衛の第一人者が除かれたため明の国防は骨抜きとなり、袁崇煥の死後14年で明は滅亡した。

第二十一計 金蝉脱殻(きんせんだっかく、金蝉、殻を脱す)

 敵軍が太刀打ちできないほど強大で、抵抗するほど損害が拡大するような状態のため、一時撤退して体制を立て直したいとする。この際、何の策もなく撤退すると敵軍の追撃を受ける危険性があるが、金蝉脱殻の計はこのような状態において安全に撤退するための策である。

 すなわち、蝉が抜け殻を残して飛び去るように、あたかも現在地に留まっているように見せかけておいて主力を撤退させるのである。撤退の場合だけでなく、戦略的な目的で主力を移動させたい場合にもそのまま使える手段である。

 “その形を存し、その勢い全うすれば、友疑わず、敵動かず、したがいて止まれば、毒虫たり”

 見せかけの守りの行動をとって、敵を油断させて敵に攻める気を起こさせず、味方も信用させておいた後に、本音の攻撃行動をとれば、敵を討ち取ることが出来る。 囮や欺瞞作戦が多く使われた。

 紀元前三世紀末、項羽に敗れた劉邦は、手勢を連れて退却したが、もはや敗戦の様相が濃厚となったとき、ひとりの将軍が劉邦を逃すための奇策を進言し、実行することとなった。この将軍が劉邦に変装し、女官1000人に戦闘服を着せて、まずは正面からの徹底抗戦の陣形を項羽に見せ付けた。項羽も最後の決戦のときが近づいたことを察知し、万全の正面攻撃態勢をとった。

 項羽が攻撃態勢を完了したのを見計らって、劉邦に変装した将軍は、兵站の欠乏を理由にして降服を告げた。項羽も歴戦の兵士の疲労を考えて、この降服を受け入れた。劉邦に扮した将軍が、項羽の下に身を差し出した時には、既に劉邦は裏門から脱出を果たしていた。囮をもって、敵の戦力を意図通りの正面に集結させておいて、手薄な裏門から脱出したのである。

 当然のことながら、件の将軍と1000人の女官は自刃して果てた。囮や欺瞞作戦には、自軍の犠牲が付きものである。この犠牲のためにも、この作戦は、必ず成功させなければならない。犬死をさせてはならない。

 宋軍が優勢な軍の襲撃に持ちこたえられず、陣地を放棄するとき、旗印を残したままにしておき、さらにで吊り下げたの前足に太鼓を据えて音が立つように仕掛け、まだ陣地を守っているように見せかけておいて撤退した。

 スパルタカスは、2千年以上も前の古代ローマ帝国時代の奴隷解放の反乱軍リーダーであった。彼は、策略家であり、智謀に優れ、勇敢な反乱軍を指揮して、当時の奴隷制の政権に大きな打撃を与えた。

 スパルタカス軍は、海を背にして両側が断崖絶壁の山に集結していた。ローマ軍はこの鎮圧に向かった。ローマ軍は、この山の唯一の道を堅守し、幾重もの妨害壁を設けて反乱軍を山上に孤立させた。山上の到る所に山葡萄のツルが茂っていた。スパルタカスは、このツルを集めて長い縄梯子を作らせて、是を使って断崖を迂回して敵の背後を突いて奇襲攻撃を行い、敵に大きな損害を与えて撤退させた。

 ローマ軍は、その後、更に2倍の部隊を以ってまた攻撃を開始した。連続の激戦により、反乱軍は兵站が不足し、多数の傷病者が出て、まさに陥落の瀬戸際となった。この敵の囲みを打ち破るために、一計を図った。死者の服を木にくくりつけて、陣営の前に歩哨のように見せかけて置かせた。数人の兵隊をそこに残して、歩哨が報告をするように、定期的に報告の声を上げさせた。敵から見ると、何らいつもと変わらない状況を演出して、敵を油断させた。

 この間に、本隊の大部隊は、間道を抜けてまんまと囲みを脱出することに成功した。これに激怒したローマ軍は、さらに、この反乱軍の鎮圧に向かった。ローマ軍は、反乱軍が必ず通らねばならない重要な地点に、長大な塹壕を掘って、反乱軍を待ち受け、この地において反乱軍を殲滅することとした。

 大雪の夜、スパルタカスは、反乱軍に命じて、塹壕の近くまで接近させて、松明を持たせて、笛や太鼓で踊らせた。当時の習慣として、この様な行動は、奴隷が死ぬときに行う最期のお祭りであった。反乱軍のこのような行動を見て、ローマ軍は、敵は自暴自棄になっているものと思い込み、この間、警戒を緩めた。このとき、スパルタカスは、反乱軍に命じて木片や凍土などにより、塹壕を埋めて通路を作り、奇跡的に囲みを突破した。

 “相手を油断させることは、簡単なことではなく、敵のみならず味方にも真意を明かさず、命がけで行ってこそ成功できる。

 “実は”とか“お前だけに”は、絶対に避けねばならない。

第二十二計 関門捉賊(かんもんそくぞく、門(もん)を関ざして賊を捉(とら)う)

  「関門」すなわち敵の退路を断ってきっちりと追い込んで、「捉賊」包囲殲滅する戦術。

 “小敵はこれを苦しむ。剥は往くところあるによろしからず”

 弱小の敵は、包囲殲滅させればよい。しかし、あまり追い詰めると、死に物狂いで向かってくるので、深追いせずに活路を与えてやる。そして、敵が衰弱するまでじっくりと待って、仕留めれば、損害も少なく戦果も大きい。 

 敵の退路を断つのにもっぱら地形、建築物や伏兵に頼って戦闘をする必要は無く、講和停戦を餌にして城砦の内側のような逃げられない場所に敵を誘導してから一気に襲う策もある。

 我が敵より十分に優勢であれば、窮鼠猫を噛む可能性を恐れる必要は無いので、敵を包囲殲滅できる好機を逃してはならない。逃走している敵を追撃することを戒めるのは、逃走が陽動であれば、追跡した部隊がワナや伏兵に襲われるからである。

 「賊」とは、奇襲部隊であり、遊撃部隊であり、我を撹乱疲労させることを狙っている部隊とも解することができる。呉子には、一人の死ぬ気の賊を放ち千人で追跡しても、この千人は一人の賊を恐れるという趣旨のことを書かれている。

 すなわち、逃げ隠れして居場所が分からずいつでもこちらを奇襲できるような必死の決意にある敵の部隊を追うのは危険であり効率も悪い。故に、そもそも捕らえられるものはすぐに捕らえて以後逃がさないことに労力を払うべきで、逃げたなら徒に急迫することは避けるべきなのである。(欲擒姑縦

 紀元前260年、軍は自軍が大軍であることを頼みに、白起率いる軍に向けて出撃したが、伏兵によって完全に分断・包囲されてしまった。白起はすかさず秦本国から援軍を召喚し、包囲を幾重にも固めたため、趙軍には一切の兵糧も届かなくなった。

 数十日間も兵糧が絶えたことで趙軍は敗れ、40万人という前代未聞の大人数が秦の捕虜となった(長平の戦い)。大量の飢えた捕虜にあてる食糧がなかった秦軍は反乱を恐れ、捕虜を取引材料とせず自国の奴隷ともせず、数百人の少年兵を除いて、欺いて連れ出して、ことごとく生き埋めにして殺してしまった。その結果、趙は急激に弱体化して戦国時代が収束する一因となった。

第二十三計 遠交近攻(えんこうきんこう、とほきにまじはりちかきをむ)

 遠い国と親しくし近くの国を攻略するという意味

 “形禁じ勢いそむけば、利は近く取るに従い、害は遠隔をもってす。上火下沢水なり。”

 戦闘は、地理的条件によって影響を受けるので、これに背いてはならず、まずは、近くの敵から攻めることが理に叶っている。遠方の相手を先に敵にしてはならない。近くの火から遠方の水を利用して消すのが得策である。

 中国戦国時代では諸国は絶えず戦争を続けていたが、多くの国々が分立していたため、一国を攻める場合には複数の国々が同盟を組み、攻める国を二正面戦争状態にさせ、一国を攻めた後に得られた戦果は分担するのが慣わしであった。

 遠方との緊密な連絡を確保するのが難しい前近代においては、通常その場合に同盟相手として選ばれるのは自国と隣接した国であった。しかし近隣の同盟国と共同して遠方の他国に攻め込み、そこから領地を得られたとしても、それは飛び地となってしまう場合が多い。

 このため領地の維持が難しく、結局はすぐまた領地を取り返されてしまっていた。中国は広大な大陸国家であるので、飛び地の領土経営・管理防衛は本国からでは非常に難しかったのである。

 范雎は諸国を遊説し、はじめ大夫に仕えたが、異心があると疑われて、に逃れ、昭襄王に仕えて遠交近攻を説いた。すなわち、遠い国と同盟を組んで隣接した国を攻めれば、その国を滅ぼして領地としても本国から近いので防衛維持が容易である。この方策に感銘を受けた昭襄王は范雎を宰相にして国政を預けた。

 遠いと同盟し、近いを攻めた秦は膨張を続け、やがて六国を平定して中国大陸の統一を成し遂げた。

 このように遠くの相手と手を結んで近くの敵を片付ける政策を遠交近攻という。

補足 合従連衡(がっしょうれんこう) 

 春秋戦国時代、戦国七雄のうち強大になりつつあったと、周辺六ヶ国(韓・魏・趙・燕・楚・斉)の外交政策として、いずれも縦横家によって考えられた。

 当初、六国は相互に結び、協力して秦の圧力を防ごうとした(蘇秦の合従策)。これに対し、秦は個別に同盟関係をもちかけて六国の協力関係を分断すること(張儀の連衡策)によって合従策を封じた。こうして、最終的に合従策に参加した各国はすべて秦の遠交近攻策などにより亡ぼされ、秦による天下統一が実現することとなった。

第二十四計 仮道伐虢(かどうばつかく、道を仮(か)りて虢(かく)を伐(う)つ) 「」 

 攻略対象を買収等により分断して各個撃破する作戦、特に、いったん同盟して利用したものも後には攻め滅ぼすことを指す。

に滅ぼされた(ぐ)と(かく)の故事による言葉である。

 “両大の間、敵脅かすに従をもってすれば、我仮るに勢をもってす。
 困は、言うことあるも信ぜられず。”

 自国と敵国の間の小国が、その敵国に攻められているときは、直ちに小国を救援して、自国の勢力を拡大することにする。ただ、口約束だけでは、相手は信用しない。実際に行動を起こして、信頼を得た後に小国を手に入れればよい。提携は一時的なものに過ぎない、それは、あくまで自分の目的を果たす手段である。

 虞(ぐ)と虢(かく)という小国は、晋に隣接していた。献公はこの二国を攻め滅ぼしたいと思ったが、一国なら容易でも二国に連携されると攻めるのは難しい。そこで虞の君主である虞公へ、晋の国宝の名馬と宝玉を送り「虢を攻めるために晋軍が虞を通過することを許可して貰いたい。虞には一切手を出さない」と求めた。

 虞の宮之奇は、唇歯輔車(唇破れて歯寒し)のことわざを引いて、「虢は虞の支えであり、虢が滅べば虞もやがて攻められる」と諌言したが、宝に目がくらんだ虞公には無駄であった。果たして晋により虢が滅ぼされて数年後、虞もまた攻め滅ぼされてしまった。そして晋の献公は「宝玉はそのまま、馬は大きくなって戻ってきた」と喜んだ。(『春秋左氏伝』僖公五年)。

併戦計

第二十五計 偸梁換柱(とうりょうかんちゅう、梁を偸(ぬす)み、柱に換(か)う)

 いかさまによって物事をごまかすことを言う。

 梁に使うような太さの木材を誤って柱に使えば建物が倒壊してしまうことから、敵国の王や重臣が無能な人間に入れ替えられるように工作して弱体化すること、あるいは、陽動作戦を繰り返して敵の布陣を崩し、自軍が攻撃しやすい「梁」の部分を生じさせることを言う。さらには、敵の布陣の「柱」の部分を同盟軍や第三の敵軍に押し付けてしまい、自軍の相対的立場をさらに優位にすることを狙った戦術を指すこともある。  

 “頻りにその陣を変え、その頚旅を抜き、その自ら負るを待ちて、後に乗ずる。その輪を曳くなり。”

 たびたび相手の陣形を変えさせたり、その主力部隊を翻弄させて相手の屋台骨を崩して、ガタガタにする。自滅するのを待って、一気に攻め立てて乗っ取る。車の車輪さえ押さえてしまえば、その進行を制御できるのと同じである。

 古代中国において行われた戦闘における、典型的な戦闘隊形は、縦軸の“天梁”と横軸の“地柱”によって構成されていた。戦闘は、この何れかの軸を基準にして行われた。したがって、双方共に、この軸を崩す作戦が功を奏すれば勝ち戦となった。

 秦の始皇帝の次の皇帝は末子の胡亥であったが、史記はその即位は、宦官の趙高が胡亥と宰相の李斯を巻き込んで始皇帝の遺書を改竄、始皇帝の長子で太子であった扶蘇を偽勅で自殺させることによってなされたとしている(異説あり)。

 趙高は、即位後の胡亥を酒色に溺れさせ、自ら政治の実権を完全に掌握。そこで有力者、敵対者をことごとく粛清したため、人材の枯渇と政治混乱を招き、陳勝・呉広の乱をきっかけとして、秦は中国統一後(紀元前221年)、わずか15年(紀元前206年)で滅亡してしまった。

 中国では、この趙高の振る舞いを、「秦に滅ぼされた趙の王族として復讐を行なった」と解釈する説が根強くあって、「偸梁換柱」の一例であるとされている。

 六朝時代西暦383年、強国秦と劣勢な晋が国境の川の両岸で対峙した。双方共に、渡河をして攻撃すれば、渡河の最中に攻撃されることを警戒して、膠着状態が続いていた。劣勢な晋は、この状態を打破すべく、一計を案じた。

 それは、秦に使者を送り、秦軍がひとまず河岸から後退し、晋が渡河して、秦の領土内の陸上にて戦闘をして雌雄を決することを提案した。秦は、この提案を検討して受け入れることとした。

 なぜならば、晋の提案を受け入れる振りをして、一旦、兵を引いて、晋が渡河を開始したならば、急遽、反転して渡河中の晋軍を攻撃する作戦を立てていた。しかし、この秦の作戦は、晋の想定内のものであった。

 晋は、秦の同意を取り付けた後、直ちに晋の兵士に秦軍の軍服を着せて秦軍の陣営に忍び込ませ、“晋の軍隊は予想以上に手強いので、我が秦軍は撤退するらしい”という噂を流させた。しかる後に、両軍は、協定どおりの行動に移った。即ち、秦軍は、河岸から退却をしたのである。

 秦の兵卒には、秦軍の本音の作戦計画は知らされていなかったため、晋の偽装兵が流した“晋軍は予想以上に強い”と言う噂を真実と思い込み、秦の兵隊は浮き足立ってしまい、我先にと武器を捨てて逃げ出す者まで現れた。これにより秦軍は大混乱となり、軍の陣形は総崩れとなり、渡河中の晋軍を攻撃するどころではなくなり、劣勢の晋は救われた。

第二十六計 指桑罵槐(しそうばかい、桑を指して(エンジュ)を罵る

 桑の木をさして槐(エンジュ)の木を罵る、と言う意味で、「三十六計」には、「強者が弱者を屈服させるときに警告する方法」とされている。すなわち本当に注意したい相手を直接名指して注意するのではなく、別の相手を批判することで、間接的に人の心をコントロールしようという作戦だと、湯浅邦弘は著書『孫子・三十六計』(角川ソフィア文庫)で解釈している。

 “大、小を凌ぐは、誡めて以って是を行う。剛中にして応じ、険を行いて順なり。”

 強者が弱者を服従させるには、力ずくで屈服させるのではなく、警告によって、その意思を伝えるべきである。強硬な態度で臨めば従順し、毅然とした行動を示せば心服させられる。

 紀元前685年、斉の桓公は、周辺8カ国との長年の戦争に終止符を打つため、周辺8カ国との平和条約を締結すると共にその首長国になることを考えた。そのことを協議する会議を斉で開くことを各国に提案した。

 斉は、各国に参加する代表者の安全を保証するため、会場には一切兵隊を近づけないことを成約した。この結果、斉を含めた5カ国の君主が斉の会場に参集した。しかし、9カ国のうちの4カ国は不参加であった。

 このため、参加国中最大勢力の宋の君主は、全員が参加しない条約は無意味であることを主張すると共に、この会議の首長国に斉が指名されたことに不満をもって、密かにこの会場を抜け出して帰国してしまった。

 斉の桓公は、これに怒って宋の王を追撃することを、配下の将軍に命じた。しかし、賢明なこの将軍は、今、最強の国の宋を攻めたところで、損害が大きくなるばかりであり、もし敗北でもすれば他の同盟に参加した国までもが離反してしまう。むしろ、参加しなかった小国の一つを攻撃して、宋への警告とすべきであると進言した。

 この進言を受け入れた桓公は、直ちに弱小の隣国に向けて攻撃を開始した。この弱小国は、無論勝算はなく、戦う前に和議を申し出て、条約会議の不参加を詫びて同盟に参加することを受け入れた。他の不参加の国も、桓公の決然とした態度と、同盟に参加すれば許すという度量の深さに感嘆し、残りの不参加の国も戦わずして同盟に参加することとなった。

 この後、桓公は同盟軍を率いて宋に進撃したが、戦いに利なしと悟った宋は、自らも同盟に参加することを申し出た。桓公は、一滴の血も流さずに同盟を達成し、自らもその首長国となった。

第二十七計 仮痴不癲(かちふてん、痴を仮りて癲わず ) 

 愚か者を装って相手に警戒心を抱かせず、時期の到来を待つ。

 なお、「痴」は、将本人の痴呆や老衰など演技することも指すが、愚かな作戦行動を故意に行うことや、軍事力を隠蔽して低く見せることで敵を油断させて後に叩く戦術も指す。(静不露機,雲雷屯也)

 「癲」は狂うことであるが、この語は、偽装は「癲」でなく「痴」によらなければならないことも示している。すなわち、「癲」を演じて、是非善悪、損得が一切関係ないように動き続ければ、何らかの偽装で行っているのではないかと敵に看破されやすい。

 「痴」つまり「知らない、分かっていない、気づいていない」を前提にしつつ、振舞いとしては合理的である(ただし愚かな結果にはなっている)ほうが、第三者から見て自然であるため、より敵を欺きやすい。

 “むしろ偽りて知らず戸為してなさずとも、偽りて知るを仮るをなして妄(みだ)りに為すことなかれ。静かにして機を現わさず。雲雷、屯なり”

  下手に利口ぶって軽挙妄動に走るくらいなら、馬鹿なふりをして、じっとしているほうが良い。時が来るまで秘策を持って待つことが大切である。
 それはあたかも、雷雲が冬の間はじっと隠れて力を蓄えて稲妻を放つのを待っているようなものである。これが出来ない人は、本当の馬鹿である。

 中国春秋時代の国で、穆王という強権を誇った王が亡くなった。穆王は非常に戦に強く、他国を圧倒し続け、彼の代に楚は大陸の覇権を手中にしたが、一方ではその酷烈な性格を知られ、諸侯に大いに恐れられた王でもあった。また楚の隆盛は穆王個人の武勇に支えられており、繁栄とは裏腹に重臣に才覚のあるものは少なかったのである。

 代わって即位した太子侶は若い頃から聡明で知られ、群臣は穆王の代よりも良い時代が来ることを予見していたが、即位に際して侶の叔父の公子燮が王位を望み、侶を誘拐して首都から遠く離れた土地まで逃亡する事件があった。結局公子燮は捕えられて殺されたが、その時から侶はまるで人が変わってしまった。

 侶は解放されて首都に戻るやいなや三年間の喪に服すことを理由に後宮に篭り、日夜宴席を張って全く政治をみることをせず、諌める者は全て殺すと宣言した。群臣は呆れ返ったものの諌めることも出来ずに見守っていたが、やがて新王の乱行を目の当たりにして野心のある者は謀反を起こし、奸臣は公然と賄賂を受け取るようになった。国外でも、穆王の頃に楚の軍事力を恐れて服従していた国々は楚王を侮って次々と離反していった。

 やがて三年目に、朝廷の廃頽を憂えた伍挙が命を賭して楚王となった侶の御前に進み出てこう言った。

 「ある丘に鳥がいて三年の間、全く飛ばず、全く鳴きませんでした。この鳥の名は何と言うのでしょうか?」楚王は酒に濁った目を向けると不快げな面持ちでこういった。「お前は諌める者は殺すと言ったのを聞かなかったのか」

 しかし伍挙がなおも言い募ろうとすると、にわかに容儀を正し、伍挙が今まで耳にしたことのない荘厳な声でこう言った。
 「その鳥は、ひとたび飛べば天まで昇り、ひとたび鳴けば天下を驚かすだろう。挙よ、さがれ。私には分かっている」(鳴かず飛ばず故事

 その後暫く経ってから、大夫蘇従が同じように楚王を諌めた。楚王またもや不快げに、「法律を知っているそうだな」とだけ言った。蘇従は「王がそのことにお気づき下されば、死んでも本望です」と応えた。すると楚王は初めて笑顔を見せて、「よくぞ申した」と言った。

 その日から楚王は伍挙・蘇従を中心に据えて、悪臣数百人を一斉に排し、賢臣数百人を登用する大改革を始めた。実は楚王は日夜饗宴明け暮れるように見せかけて、家来たちの本質を見分けていたのである。

 侶の時代に楚は絶頂期を迎え、楚の威光は父の穆王の頃よりも更に遠方まで広がった。侶は死後に荘の諡号を受けた。彼こそが楚の八百年四十代の歴史の中で最高の名君とされる荘王である。出典は『史記』。

 また、同様の逸話が戦国時代威王淳于髠の間にもある。

 漢では劉邦が亡くなり呂雉が実権を握ると、呂氏の専横が始まった。建国の重臣である右丞相陳平は、陰謀に優れていたため特に警戒される立場だったが、酒と女に溺れたふりをして粛清の嵐を避けた。そして呂雉の死去を契機とし、宴会に見せかけて同志を集め打ち合わせを重ねていったが、元から才は抜群だが素行に問題有りと言われていた酒好き女好きの右丞相が行う宴会だったので、呂氏は警戒をしなかった。そうして遂に陳平や周勃は逆クーデターを実行し、呂氏を皆殺しにした。

 魏では曹操亡き後、司馬懿が権勢を増していったが、それを疎んだ政敵の曹爽の一派の活動が活発となり、司馬懿は宮殿から遠ざけられた。司馬懿は屋敷に籠もり、交流も全くしなくなった。司馬懿を追い出して以降も警戒を怠らなかった曹爽派だったが、あまりに静かなので不気味に感じ、様子を見に行った。そこにいたのは真っ当な応答もできず、食事は女達に手伝わせ、更に口の端から食べ物をこぼす有様の司馬懿だった。

 そうして司馬懿も老いて呆けたものだ[1]、と完全に油断した曹爽達が都を空けた隙を突き、司馬懿は権勢を取り戻し曹爽等を排除(高平陵の変)。魏において皇帝をしのぐ権勢を確保し、孫の司馬炎が禅譲される道を定めた。

 このように、暗愚をよそおって相手を油断させる計略を、仮痴不癲の計と呼ぶ。

第二十八計 上屋抽梯(じょうおくちゅうてい、屋(おく)に上げて梯(はしご)を抽(はず)す。)

 屋根に上らせてから梯子を外せば敵は下りたくとも下りられない。飛び降りれば怪我をする。すなわち敵の自縄自縛を促しそれに乗じる計略。 

 たくみな宣伝・説得によって敵を欺き、そそのかして行動させる。そして、援助や補給が断たれる状況、逃げられない状況に敵を追い込んで自傷行為に及ばせたり、攻撃して損害を与える。敵に実力以上の行動をさせることが要点。

 この計は、敵を利益で操ること、「梯子」に乗りやすい情況をあらかじめ作ってやることが肝心。策を仕掛ける側が「梯子」をかけてやるか、「梯子」があると示して気づかせてやらねばならない。

 日本語慣用表現梯子を外す梯子を外される」は上屋抽梯の語に由来する。

 “是を偽るに便をもってし、是を唆(そそのか)して進ましめ、その応援を絶ち、死地に陥(おと)す。”

 自軍の隙をわざと見せて、敵が有利なように思わせて、自軍の戦いやすい場所に引き込み、敵の後方支援を絶ち、逃げ道を塞いで、是を殲滅する。

 前燕慕容垂らは敗れて前秦苻堅の配下となったが、苻堅に東晋を攻撃するようそそのかし、東晋が淝水の戦い(紀元383年)で前秦の大軍を返り討ちにした隙に乗じて再び独立を果たし後燕を立てた。(晋書

 漢の名将と謳われた韓信は、反乱軍の平定に出陣した。韓信の軍が、黄河流域の渭河(いが)にたどり着いたとき、対岸には20万の反乱軍が待ち受けていた。渡河して攻撃することは、渡河中に攻撃を受けることになるため、双方とも対岸で睨み合いとなった。

 反乱軍は、持久戦により、韓信軍の疲れを待って攻撃する構えであった。韓信軍は慣れない土地の気候と兵站の補給に腐心していた。このため、韓信は、速やかな決戦を望んでいた。

 急遽、一部の部隊に対して上流に行かせ、土嚢で川を堰止めさせた。その翌日早朝、水位の低くなった川を韓信軍は容易に渡河でき、敵陣に攻撃を仕掛けた。敵地での戦闘であったため、緒戦において、速やかに退却を命じた。

 これを見た反乱軍は追撃を行った。韓信軍は渡河を終えたが、追撃の反乱軍はまだ渡河中であった。この機に乗じて、韓信は、上流で待機していた部隊に、堰き止めていた土嚢を外させて、水位を戻させた。これにより渡河中の反乱軍の半数を溺死させた。この後、半減した敵を撃滅し、反乱軍を鎮圧した。

 敵を騙すためには、見方も騙さなければならない。事前に退却の策を兵に伝えれば、退却の時期を気にして兵は攻撃に集中できなくなる。勝ち戦の最中であっても、命令一下、速やかに退却できる軍律が確立されていることが重要である。

第二十九計 樹上開花(じゅじょうかいか、樹上に花を開(さか)す。 )

 小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く計略。

 “局を借りて勢を布けば、力小なれども勢大なり。雁、陸を進む姿、その羽をもって儀となすべし”

 様々な戦局において、手段を選ばず優勢を示せば、たとえ弱小な兵力でも強大に見せるかけることがでる。これにより、我に有利な新たな戦局が展開できる。空に飛び立つ雁を見るが良い。羽を目いっぱいに広げて、意気盛んなように見せているではないか。 

 紀元前3世紀、の大軍に包囲された田単は、斉が兵力に劣ることを補うため、当時の民衆の宗教心を利用することにした。まず、斉の民に、毎日定刻に餌をまいてを招き寄せるよう命じた。鳥の大群が毎日斉に集まるのを見て燕軍は、天意が斉にあるかと疑った。

 次に、燕の捕虜に密かに命じて斉の墓地を暴かせた。これで人々は怨霊を恐れた。仕上げには、1000頭あまりのを極彩色に塗装した上で、その尾にたいまつを縛りつけて敵陣に突進させ、(亡霊のように)派手に仮装した5千の兵を牛の後に従わせて夜襲を行い、燕を敗走させた。

イワンさんの解説

 戦国時代(紀元前403年~同221年)、斉は、他の五カ国の連合軍と対峙し、斉の国は、70の都市を失い、たった二つの都市を確保するという危機的な状況になっていた。このうちの一つの都市の防衛に当たっていたのが田単であった。この都市は既に連合軍に包囲され、討死にか降服の選択肢しかない状態となった。

 田単は、最後の決戦を覚悟したが、あくまで討死にではなく戦勝を期する戦いを考えていた。このため、現状で考えられるだけの兵力の増強策を考えた結果、三つの策を命じた。

 1  老人、子供、女子を防備に当たらせた。

 2  都市内にいた1000頭あまりの牛に派手な衣装を着せ角と尻尾に松明を縛りつけさせた。

 3  金持ちを集めて、敵陣に金品を献上させ、斉の金持ち達が既に斉を見限ったように見せかけた。 

 この策により、連合軍は、斉の内部崩壊が近いことを読み取り、その夜は、安心していた。

 まさに、その夜、田単は、満を持して、牛の角と尻尾の松明に火をつけて、敵陣めがけて追い立てた。寝込みを襲われた敵兵は、今まで見たことも無いような獣の襲撃を受けたと思い込み、恐怖で混乱して逃走した。この機に乗じて、田単は総攻撃を仕掛けて一気に敵を制圧した。

 この勝利をきっかけとして、斉は失った70余りの都市を次々と奪い返して、往時の勢いを取り戻した。

 20世紀、八路軍の陳賡兵団は囮部隊であったが、南進して接敵すると、大きく迂回して北上、再び同じルートで南進するという方式で、一兵団を複数の兵団であるかのように偽装した。また、移動する際には遠方から見えるほどの土埃を上げさせ、留まる際には、かまどを必要以上に多く作り、撤退する際には背嚢を多く捨てておくといった工作により、あたかも大兵力であるかのよう装って、これを主力と錯覚した国民党軍をよく撹乱した。

第三十計 反客為主(はんかくいしゅ、客を返して主(あるじ)と為す)

 敵にいったん従属あるいはその臣下となり、内から乗っ取りをかける計略。時間をかけて行うべきものとされる。 

 “隙に乗じて足を挿し、その主機を抑えよ。渐に進むなり。”

 相手に隙あればすかさず付け込み、その中枢を抑えて支配せよ。しかし、あせらずに、手順を追って進めることが肝要である。 

 秦の滅亡後、項羽の兵力は圧倒的であった。劉邦は保身のため、項羽の専横に対して忍従しつつも左遷地の漢中で兵力を蓄え、機を捉えて項羽を滅ぼした。

 曹操の配下となった司馬懿は、野心を隠して警戒心の強い曹操によく仕え、曹丕曹叡の下で重臣となった。曹丕、曹叡が短命のうちに逝去したこともあり、司馬懿の権力は絶大なものとなっていった。曹叡の死後、皇族に連なる曹爽は司馬懿を名誉職に祀り上げて権力の座から除こうとしたが、249年に司馬懿は郭太后を利用してクーデターを仕掛け、権力を曹爽派から奪い彼等を粛清した。

 さらに251年には曹爽のような皇族の専横の再発を防ぐためとして、皇族の曹氏をすべてに軟禁した。その孫の司馬炎が魏の乗っ取りを完成させてを建国した。

 三国時代、袁紹と韩馥は盟友関係にあり、かつては共同して董卓を討伐した仲であった。それ以来、袁紹は次第に勢力を拡大し強大な地位を占めていった。彼は黄河北部にまで進撃していたとき、兵站が欠乏して困窮を極めていた。

 これを知ったかつての盟友の韩馥は、自発的に、袁紹のもとに兵站を送ってやった。しかし、袁紹軍にとっては、この韩馥の補給だけでは十分ではなく、更なる補給が必要であった。そこで、袁紹は配下の参謀の建策を受け入れて、糧食の宝庫である異州を手に入れることを決定した。

 当時、異州は盟友韩馥が領有する土地であっが、彼は、そんなことを気にせずに、自身の妙案の実行に取り掛かった。まず、彼は、公孙瓒に書面を送って、一緒に異州を攻めることを提案した。公孙瓒も以前から異州を攻め取りたかったので、まんまと袁紹の誘いに応じた。

 公孙瓒は、早速、異州の攻撃準備に取り掛かった。この一方で、袁紹は自分の密使と気付かれないようにして密かに韩馥に人を送り、次のように吹聴させた。“公孙瓒と袁紹は貴方の異州を攻略する積りです。この状況では、異州は守りきれないでしょう。

 袁紹はかつては貴方の盟友であったではありませんか。また、最近では、貴方は、袁紹に兵站の支援までしてあげたではありませんか。この関係をもって、袁紹と連合して、公孙瓒に対抗すれば、異州は安泰です。直ちに、袁紹と連絡をとり、このことを伝えるべきです。”

 韩馥はこの意見を受け入れて直ちに実行した。袁紹も自らの筋書き通りのこの提案に応じて、軍を引き連れて異州に入城した。袁紹は表面上は異州の救援に応じたように見せかけていた。しかし、韩馥は、袁紹が異州の要所に自分の部隊をくまなく張付けて、異州を制圧する態勢を取っているのを見て、袁紹の意図をはっきりと読み取った。主客が逆転したことを悟って、命からがら異州を抜け出さざるを得なかった。

 戦いは、常に強いものが勝ち、弱いものが負ける。これは、単なる戦力差だけではなく、当然のことながら、策略の優劣によって決定される。戦いには、温情や過去の経緯は通用せず、通用するのは目的に対する飽くなき達成心である。“義理人情のような温情は、人によって受け取り方が違うものであり、期待や予測は禁物である。” “敵に塩を贈る”ことは、戦いの原則にはない。

敗戦計

第三十一計画 美人計(びじんけい)

 色仕掛けで相手の戦意を蕩かせてしまう計略。勢いのある相手と正面からぶつかり合うのは愚策である。敵が強いのであれば美人を献上するのが良い。相手に服属するのに土地を献上すれば戦国時代に六国がに服属したときのようになり、金銀財宝を献上すればや金に服属したときのようになるだろう。土地や財宝ではなく、美人を献上して敵将をこれに溺れさせれば、その敵将の野心や攻撃心を挫くとともに肉体を衰弱させることができる。また、土地や財物と違い、味方に負担がかからない。そして、敵の末端の兵士は報酬として得るものがないので主君を恨むように仕向けることができる。

 “兵強きは、その将を攻め、将智なるは、その情を打つ。将弱く兵崩れればその勢い自ら萎まん。利をもちて寇を御し、順にして相保つなり”

 強大な敵に対しては、その指揮官を狙い、その指揮官が智謀に長けていれば、策を弄してやる気を失わせる。指揮官を弱めて兵を狼狽させれば敵の戦力は自然と衰える。相手の弱点を利用して攻めれば、自ずと勝利の道が開けていく。

 相手が欲しているものをちらつかせることにより、相手を思い通りにコントロールすることが出来る。あるときは、美女であり、あるときはお金や品物であったりする。相手の欲しているものは、多種多様であり、一種類とは限らない。

 酒、女、ゴルフ、貴金属、地位、名誉、健康等々あらゆるものが対象とされる。この美人の計の“美人”とは、単なる美しい女ばかりではなく、“相手が欲する全てのもの”を対象としている。
“聖者は、自己の欲するものを他人に悟られはしない”

春秋時代末期にに滅ぼされそうになったとき、呉王の夫差に対して越の范蠡が美女西施鄭旦らを送り、やがて逆に呉を滅ぼしてしまったという故事がある。

 美人計として有名なのは、前漢の相国董卓と大将軍呂布を反目させるために重臣王允の養女貂蝉(中国四大美人の一人)を餌にした美人計による離間の計を仕掛けたのが有名です。 因みに四大美人とは、西施、王昭君、楊貴妃となります。

第三十二計 空城計(くうじょうけい)

 あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のこと。敵方に見破られた場合は全滅の危険性があり、心理戦の一種である。

 “虚なるは是を虚とし、疑の中に疑を生ぜしむ。剛柔の際、奇にして奇なり”

 自軍が劣勢のときにはあえてこの劣勢を敵に見せ付けて、敵に自軍の劣勢が本当なのかどうかを疑わせる。これによって、戦闘中に思わぬ活路が開けることがある。

 野戦で敵に敗れた場合、既にして敵軍が圧倒的に優勢な状況であることが多い。その状態で城に逃げ込んでも結局最後には補給を断たれ、降伏することを余儀なくされる。自軍が圧倒的に数が少ない場合、敵軍が攻城戦や包囲戦に移ることを防ぐためには、敵将に自軍の戦闘能力を錯覚させることが重要である。

 例えば、敵軍に攻め寄せられた際に城門を開け放ち自ら敵を引き入れようとすれば、優秀で用心深い指揮官ほど逆に警戒する。『追うこと百里ならば将を失い、五十里ならば兵の伴ばを失う』とある通り、敵が罠を仕掛け待ち構えているところに入るというのは、全滅もありえるほど危険だからである。

 『三国志演義』では諸葛亮が野戦でに敗れた際、蜀軍は魏軍と比べて圧倒的に兵力が少なかった。諸葛亮は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の司馬懿は諸葛亮の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという。

 史書においては三国志に付けられた注釈で魏の郭沖が語った故事として前述のモデルとなった諸葛亮が城門を開け放ち司馬懿を退けた話が記録される他、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操軍を撤退させたのが初である。

 敵の食糧を奪いに行った黄忠が帰陣の時間を過ぎても戻って来ないので、趙雲は残った少数の部下を率いて黄忠の応援に向かった。ところが黄忠の軍が見つからないうちに突然、趙雲軍は曹操軍の大軍に遭遇したが、無謀にも馬を敵の大軍の中に突入させたところ、驚いた曹操軍は乱れて退却し始めた。

 暴れ回っていた趙雲は、これを見ると馬の首を反転させるや、今度はまっしぐらに自分の陣に向かって退却した。それを見ていた曹操軍は一斉に追い始め、趙雲の陣近くまで達するも、急に指揮官が馬上から手を上げて、全軍を静止した。不気味にも趙雲の陣の門が開かれ、中が静まりかえっているからだった。

 指揮官は「おそらく伏兵がいるに違いない」と考え、退却を命じた時、突然後方から石や矢が飛んできた。やはり趙雲軍は陣の外に伏兵を配置しており、曹操軍は散々な目にあって逃げ去って行ったとされている。

 北斉の北徐州刺史・祖珽の攻撃を受けた際、城門を開放し、守備兵を降ろして城内を静めさせ、人や鶏・犬の往来を禁じた。陳の軍勢は城内が無人ではないかと考えて備えを設けなかった。祖珽が兵に叫ばせ鼓を響かせたところ、陳の軍勢は驚いて遁走した。

 唐代、吐蕃が河西に侵攻し瓜州を陥落させた。瓜州刺史・張守珪が州城を再建しようとした際にもまた吐蕃軍が襲撃してきた。城中に防御の備えはほとんど無く、みな闘志を失っていた。張守珪は「敵は多勢、我々は無勢、被害は甚大で矢石を以て持ち応えることもできない。臨機の手段によるべきである」と言い、城上で将士との宴席を設けた。吐蕃の軍勢は城中に備えがあるのではないかと疑い、敢えて攻めずに去った。

 三国時代の西暦220年~280年、蜀と魏が交戦状態にあった。当時、蜀は魏によって劣勢な状況に追い込まれており、蜀の軍勢は、各地において戦闘状態にあり、蜀の都は僅か2500名ほどの兵力によって防備されていた。この状況を察知した魏は15万の兵力をもって、蜀の都の攻撃に向かった。蜀の都の兵は、圧倒的な魏の兵力を前にして狼狽し浮き足立っていた。

 しかし、蜀の皇帝は、少しも騒がず、僅か2500の兵を城門を開いたままにして、そこに立たせると共に、残りの兵には住民に変装させて何食わぬ振りをさせて、市内の掃除をさせた。皇帝自らは、望楼に登って、香を炊いて楽器を奏でた。魏の偵察隊は、この状況を魏の指揮官に報告した。

 魏の指揮官はこの状況が信じられず、自らも偵察をした。そして、彼は“蜀の皇帝は用心深く策略家と聞いている。何か巧妙な策が無ければ、このような大胆な行動は取らないはずである。”と考え、攻撃を取りやめて撤退をした。魏の皇帝は、自軍の僅か2500の兵士と自らの香と楽器によって、15万の魏軍を退却させたのである。

 日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。1573年三方ヶ原の戦いで徳川軍は武田信玄率いる武田軍に大敗し、壊滅状態で浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外にかがり火をたかせ、太鼓を叩かせた」ところ、それに警戒した武田軍は兵を引き挙げ、浜松城は落城を免れた[1]。これは武田軍の指揮官の山県昌景馬場信春が、信玄の教えによって中国古来の孫子六韜三略などの兵法に通じており、「空城計」(及び関門捉賊欲擒姑縦)をよく知っていたためであるとされる。

第三十三計 反間計(離間の計)

 “反間者は敵の中に作ってこれを用うべし。用間は五種あり、有郷間、有内間、有反間、有死間、有生間”敵の様々な仲介者に働きかけて、敵が拠り所としている人間関係を無力化する

 敵の間者(スパイ)や内通者を利用する計略を言う。すなわち、敵の間者に偽情報が流れるように工作して、その結果、敵内部の離間や粛清を図ったり、敵に我の望む行動をとらせるよう仕向ける。敵の間者を直接に脅迫ないし買収して、いわゆる二重スパイとすることも含む。

 歴史上最も有名な反間計は、劉邦の配下の策士陳平が仕掛けた将軍項羽と軍師范増の中を「謀反あり」として半目させ、失脚させた離間の計が最も有名です。この離間策のために陳平は四万金を使用したとされます。項羽は疑い深く、ケチであったために大金バラマキは見事に決まった。

 西暦208年、赤壁の戦いが開始されようとしていた。圧倒的な戦力を持って周瑜軍に対峙した曹操軍は、水上戦の不利を補うために水上戦に長けた二人の将軍を特別に登用して訓練に当たらせた。この結果、曹操軍は水上戦においても周瑜軍に対抗しうる戦力となり、これにより、さらに両軍の戦力差は開く一方であった。この功績により、二人の将軍は曹操軍の功労者となった。こんな中で、曹操は、周瑜と旧知の仲であった自分の参謀を周瑜のもとに派遣して、曹操への降服を勧めさせた。

 この参謀と面会した周瑜は、昔話をしてこの参謀を歓待し、自分の部屋に泊めて親交の深さを示し、参謀を感激させた。参謀は、寝静まった頃を見計らって部屋を物色したところ、驚くべき文書を発見した。それはあの曹操軍で水上戦を訓練した功績のあった二人の将軍が周瑜に宛てた手紙であった。“赤壁にて海戦の暁には周瑜軍に加担する”という内容であった。この文書を密かに盗んだ参謀は、これを曹操に持ち帰った。

 曹操はこの手紙を信用して、二人を裏切り者として処断した。曹操軍の有能な水上戦の指揮官がいなくなったのである。この、手紙は、周瑜が敵の水上戦力の低下と内部分裂のために仕組んだ罠であった。曹操軍は、孔明の知略も加わって赤壁において大敗を喫した。

第三十四計 苦肉計(くにくけい、くにくのけい)

 人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用して敵を騙す計略である。 

 人間は自分で自分を害することはない。ある人に害があれば、それは他人から受けたものだ(ある人を「害そう、攻撃しよう」と主張する人間が、その人の配下や工作員であるはずがない)。

 また、もし本当に自分で自分を害したのであれば、その理由はやむにやまれぬものであるはずと判断する傾向がある。この心理を利用すれば、虚実を入れ替えて、たやすく人を欺くことができる。

(苦肉計を行う者は)自分が間者となり敵を欺こうとしていることになる。自分から離反した人間(あるいは「離反した」と自称する工作員)を使って、敵が自分を攻撃するように誘う工作や、敵と呼応する工作を仕掛けるなら(自分を害するように仕向けているのであるから、それらは)みな苦肉の計の類である(敵はこれを計略だとは思わず本気にして騙される)。

 鄭武公が胡を討つに先立って娘を嫁がせ、胡の討伐を進言した関其思を殺して胡を油断させたことや、前漢初め、への使者である酈食其が同盟を結んだ後に韓信が斉を攻撃して、酈食其が斉で烹殺されたことは、苦肉計の例である(酈食其の場合は韓信が同盟を結んだことを無視して攻撃したため、結果的に苦肉計となった)。 

 赤壁に布陣した連合軍に対し、曹操軍は3倍という兵数であった。周瑜配下の黄蓋はこの劣勢を前に有力な対抗案を出せないとして司令官である周瑜を罵倒。これを咎めた周瑜は兵卒の面前で黄蓋を下半身鞭打ちの刑に処した。これにより重傷を負った黄蓋は、敵である曹操軍に投降を申し出る。

 一連の出来事は間者が報告していたため、曹操はこれを受け入れて一旦自軍へ招く。しかし黄蓋の書面を見て策を看破し、「私を苦肉の計で騙そうというのか」と言うが、孫権軍の使者である闞沢が曹操を丸め込んで黄蓋の投降を成功させる。

偽装投降に成功した黄蓋は曹操軍に放火することに成功し、曹操軍は壊滅。こうして劉備・孫権連合軍は曹操軍の撃退に成功した。

第三十五計 連環計(れんかんけい、れんかんのけい)

 複数の計で大きな効果を狙ったり、複数の勢力を連立させる等して敵内部に弱点や争点をつくりだし足の引っ張り合いをさせる兵法である。

 「将多く兵衆ければ、以て敵すべからず。其れをして自ら累れしめ、以て其の勢いを殺ぐ。師に在りて中するは吉にして、天寵を承くるなり。」

 「(敵の)将兵が多ければ、(正面から)敵対してはならない。敵を自ら疲弊させ、勢力をそぐようにする。自軍にいながら(適切な)計略を用いるのが良く、(時勢に鑑みて)天運を受けるのである」とある。 

 真正面から敵に当たらず、敵の情勢を観察して、種々の計略を用い、敵に仲違い・内紛等を生じさせて勢力をそぎ、勝利を得る作戦である。

 南宋の将・畢再遇は、軍との戦いの際、幾度も進軍・退却を繰り返して、敵軍を疲弊させ、日没後に、自軍の陣地に香料で煮た黒豆を撒いてから、偽りの敗走をして敵軍を誘い込んだ。追撃してきた金軍の馬は、連戦で空腹になっており、一斉に地面に撒かれた豆を食べはじめ、将兵が鞭打っても進まなくなった。そこに、畢再遇軍が引き返して反撃し、勝利を得た

 後漢司徒であった王允は、専横を極める相国董卓を亡き者にするため、「連環計」を謀る。まず、絶世の美女として知られる娘の貂蝉を、董卓とその側近の呂布の元に送りこみ、二人を貂蝉の虜にした(美人計)。その後、貂蝉を巡って両者を仲違いさせ(離間計)、呂布を説き伏せて董卓を殺害させた。

赤壁の戦いにおいて、孫権劉備連合軍が、敵対する曹操軍の船団を火攻めにする計略を巡らせているところへ、蒋幹が案内した龐統が「連環計」を献策する。曹操軍に潜り込んだ龐統は、曹操に船酔い対策として軍船同士を鎖で繋げることを進言し、曹操の船団が容易に動けないようにしむけた。

 また、連合軍は将軍の黄蓋を偽りの棒叩きの刑に処した。これを連合軍に潜入していたスパイの蔡中らに見せつけて虚偽の情報を流し(反間計)、曹操軍へ黄蓋の偽装投降を信じこませた(苦肉計)。その後、潜入した黄蓋たちは曹操の船団に火を点けた。鎖で繋がれている曹操の船団は燃え上がり、連合軍は曹操軍を大破した。

第三十六計 走為上(そういじょう、走(に)ぐるを上(じょう)と為(な)す)

 
万策尽きたときは逃げるのが最善の策

 諺に「三十六計、逃げるに如かず」の出典です。 

 兵法三十六計のうち、自軍が不利である時に用いる「敗戦計」の最後に記されており、これが同時に三十六計のとどめでもあるため、「逃げるに如かず[3]」と言い習わされている。

(勝ち目が全くないなら)全軍をあげて敵を避ける。勝利が不可能と認識したときに退却して損害を回避できるのは、指揮官が冷静な判断力を失わずにすんでいるからこそ可能なことである。

 これまでに挙げた敗戦計がことごとく破られた状況においては、降伏してしまうか、停戦(和)を請うか、逃走するかである。降伏は、以後は敵の意のままにされてしまうので完全な敗北である。停戦は、交換条件を与えねばならないから半分敗北したことになる。しかし損害を回避して兵を退き、勢力を保ったならばそれはまだ敗北ではない。孫子兵法にも「勝算無きは、戦わず」とある。

 宋の檀公(檀道済)はこの戦術を多用した。敵軍が優勢または自軍が劣勢で覆し難いと見るや、素早く撤退して軍勢を温存し、敵側の北魏に脅威を与え続けたのである。このため「逃げるに如かず」と言われるようになった。

 このように、ただ算を乱して遁走するのではなく、力を尽くして計を巡らすとも及ばなかった時には自軍の戦闘力を保ったたま「撤退」せよ、というのが本計の極意であるが、現代日本では敵前逃亡や敗走を恥とするイメージが残っているため、「逃げるが勝ち」と共に非常に誤用されやすい語になっている。

 宋畢再遇が率いる軍が軍と対陣したが、金の兵員は日に日に増員されてゆき、戦を仕掛けられないほどの圧倒的な人数差となってしまった。畢再遇は退くことを決め、軍旗を陣地に残し、羊を吊し上げて足を太鼓の上に置かせ、羊が苦しんで足をばたつかせると太鼓が鳴るように細工した(懸羊撃鼓)上で、全軍を退却させた。

 金軍は太鼓の音がして旗がそのままであるため、宋軍の総撤退に数日間気づかず、気づいたときには宋軍ははるか彼方で態勢を立て直し、金軍の追撃による損失を抑えることができた(出典、戦略考)。

 漢楚戦争の頃、劉邦項羽に勝てなかった。項羽が個人の武勇も率いる兵も圧倒的に強かったためである。このため劉邦は城に籠って項羽を引きつけておいて、別働隊の韓信が諸国を平定する策を用いた。城を落とされそうになれば本拠地まで逃げ帰り、楚の後方で彭越にゲリラ活動をさせ、その対応のために項羽が戻れば進出して再び籠城し、ロクに戦わなかった。

 業を煮やした項羽が人質にしていた劉邦の父親劉太公を引き出し「劉邦よ、出てこないならば父親を煮殺すぞ」と言ったが、劉邦は「お前とはかつて義兄弟の契りを結んだから、お前にとっても父親になる。煮汁を一杯分けて貰いたいものだ」と返した。項羽が「天下が騒がしいのは、ひとえに我ら二人のためである。二人だけで決着を付けようではないか」と言ったのには、笑って「ワシは知恵では争うが、力では争わん」と流した。そうしている間に、韓信の征伐が成功。楚とのパワーバランスを逆転させて、その勢いで最後の1戦を勝利し項羽を自刎させた。

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










 

 

 

 



  

 

 

 

 

 

 

 

 

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