カテゴリー「おもしろい話」の記事

2012年3月18日 (日)

OKの由来

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 He's OK. I'm not(彼は大丈夫、オレはダメ)など広く使用されているOKについての起源、由来については、様々の解釈がありますが、ここではウィキペディアに従って蛇足をつけたいと思います。
 アメリカの第7代大統領はアンドルー・ジャクソンです。ジャクソン以前の大統領は、初代のワシントンを初め、いずれも東部の有産階級の紳士で、民主政治といっても多分に貴族政治的なところがありました。それが西部から始めて当選したジャクソン大統領によって一掃され、ジャクソン的民主主義というわれる時代が現れたのです。そのような背景からOKという略語が世界語として生じたものです。
 ジャクソン大統領は、書類に許可を与える時に、All Correct(すべて承知した)と書くべきところをOll Korrectと書きました。間違ったとも無頓着ともいわれてます。やがてこの発言通りのオール・コレクトの略のOKが世界語として通用するようになりました。
 ジャクソンは、開拓農民の孤児で、独学で弁護士となり、独立戦争では合衆国陸軍少将として勇名を馳せました。合衆国では弁護士など知識人は、従軍するときいきなり佐官に任命します。第二次大戦でもハーバード大学卒業のケネディ大統領は駆逐艦艦長にいきなり任命されてます。所謂noblesse obligeです。現在は、米国も放棄したようです。

2011年7月11日 (月)

浅井3姉妹について

浅井3姉妹について

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三人姉妹の茶々は、秀吉の側室となり淀君と称され、次女お初は近江の名門京極高次の夫人となり、三女の督子、即ちお江は、三回も政略結婚を繰り返すという運命に弄ばれたことは知られています。
あまり知られていないことを書きます。お江は、最初は、秀吉の命により従兄(いとこ)の佐治一成という小さな大名の夫人になります。まもなく、また秀吉の命で離婚させられ、秀吉の養子の羽柴秀勝と結婚しました。秀勝は、織田信長の四男で文禄元年朝鮮の役に出陣して戦死します。そこで文禄四年お江は、徳川秀忠に嫁がされ崇源院と称されます。
最初の結婚相手の佐治氏は、お江と離縁させられたショックはひどく、家も世間も捨てて断髪して隠棲し、名前も捨てて巨載と名乗ったそうです。巨載とは、意味深長な言葉で、今流に言えばグレートセックスマシーンというような意味です。夫婦の秘密を暴露する遺恨はらしのような意味合いを持っており、お江の類まれな最高のセックスを世間に向けて公表するものと解します。当時の人々は、表札を見て、「朝からなんだい。アレのことしか考えることはないのかね。おつむがウニになってるのかね。」と噂したことでしょう。徳川二代将軍秀忠も側室は2名しかおかなかったそうです。巨載を裏書するものでしょうか。

右手首切断、左手小指以外切断、右足股から切断、左足膝から切断でも舞台を努めた芸人

 脱疽という手足の先からばい菌が入り腐敗する病気があります。これにかかった俳優には、昭和の喜劇俳優榎本健一エノケンがいます。片足を脱疽でやられて義足で舞台をこなしていました。幕末から明治初年にかけて歌舞伎女形、三世沢村田之助も脱疽にかかり、見事に舞台を努めました。

 田之助は、若くして美しい女形として当代随一、多くのファンがいましたが、慶応五年23歳の時、「紅皿欠皿」という狂言で、舞台での負傷から脱疽という業病にかかります。その舞台では、田之助の扮する娘が継母に、庭にある松の木へつるしあげられるのですが、その松の木が道具方の不注意から折れて、田之助は舞台へ落ち、その弾みで松の木をとめていたカスガイで負傷したのです。舞台は何とかとりつくろいましたが、その傷口を不潔にしていたためにばい菌が侵入し、脱疽になりました。当時最高の名医と評判のヘボン博士(ローマ字の草案者で有名)の治療を受けましたが、病勢衰えず、ついに右足を股から切断しました。負けん気の田之助は、それても舞台を努めましたが、やがて左足も膝から切断しました。やがて病毒は、両手にもまわり、右手を手首から切断、左手は、小指以外四本の指を切断しするという酷い姿になりました。闘病2年、25歳とのときです。それでも舞台にたち「国姓爺合戦」の錦祥女や「明鳥」の浦里を努めたのですから、凄まじい舞台への執念です。29歳で病死しましたが、太夫と呼ばれその死と芸が惜しまれました。

教訓 傷口を不潔にすると恐ろしい破傷風や脱疽になるかもしれない。

上野千鶴子について

言わずと知れた東大教授の社会学者です。彼女の随筆に「女遊び」副題「オ◯ンコがいっぱい」という本があります。内容は極めて固いのですが、イラストに女性器をデザインしており、かなり挑発的な本です。現在でもアマゾンで購入できます。

彼女の信条が「売られた喧嘩は買う。」「乗りかかった船はおりない。」敵は完膚なきまで叩き潰す。」というものだと記憶してます。ヤワな先生はとても太刀打ちできない人です。

この本の中で、昭和50年代に「親子同士で殺しあうこと」を予言してます。平成の世になり、親子の殺し合いは、報道されない日がないぐらいです。四半世紀前に現在の世相を予言する洞察力に敬服した次第です。社会学については兎角学問なのと言われがちですが、(社会学と経済学は仲が悪い。どちらも学問として完成しているような、してないような。知ってました。)社会学者の慧眼恐るべし。興味のある方は読んでください。

エロチックなことが書いてあると期待すると外れますので。念のため

こちらの記事もどうぞ こちら

2011年7月10日 (日)

憲法9条はいかにして造られたか。

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  昭和21年1月24日幣原総理は、占領軍総司令部GHQのマッカーサー元帥を訪ね、私的なお礼を述べました。それは老体の総理が風邪をこじられせていたのを元帥から送られた、当時我が国になかった高価なペニシリンで全快したお礼でした。それにことよせて1時間以上も元帥と懇談したのです。
  懇談の内容は、日本の新憲法を起草するにあたり戦争と戦力の維持を永久に放棄する条項を含めてはどうかというものです。元帥はこの提案を聞いて腰を抜かすほど驚いたと「マッカーサー元帥回顧録」(昭和39年刊)の中で述べているのです。
 その頃日本政府は、松本国務相を長とする「憲法問題調査委員会」が発足して、憲法草案を作成していたのですが、二月初めに司令部へ提出されました。この草案は、明治憲法の字句を訂正した程度の非民主的なもので、元帥は直ちに却下しました。GHQは、新憲法の基礎となる草案を極秘裡に作成することとなります。それは、戦争・軍備の放棄、天皇の象徴制、華族制度の廃止という原則で若手将校により、8日で作成されたといわれおり、2月13日に日本政府へ提示されました。この草案を翻訳して起草したものが日本国憲法となりました。

 戦争放棄・軍備の撤廃は、幣原総理の発案か、元帥の押し付けかは両名とも故人であり、確認できないのですが、回顧録が正しければ日本国総理からの提案となります。
 これをどのように考えるかは意見の分かれるところですが、憲法草案をわずか8日で作成した米軍と比較して、東日本大震災の対処があまりに遅いと感じるのは私だけでしょうか。被災地の復興計画は半年が経過して、もしかしたら1年たっても、計画案を募集しておりまだ具体的計画はできてないかもしれません。憤りを感じませんか。

おもしろい話1

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ギリシャの哲学者ディオゲネス

  ディ オゲネスは、酒屋から大きな空き樽をもらってそれを住家としてました。彼が犬儒派(キニク)と称されているのは、犬が残飯をあさるように、無欲自足を理想 として、あらゆる文明に反抗し否定するというものです。とくに欲すれば衆人のなかでオナニーをするということが犬と蔑まれ、ギリシャ人には嫌われていまし たが、世を捨てたディオゲネスは気にもしなかったとのことです。

  ギリシャがアレキサンダー大王に占領された時、多くのギリシャの哲学者が大王に拝謁を求めたのに彼のみは大王に拝謁しなかった。大王は、高名な乞食哲学者が拝謁に来ないのにしびれをきらし、自ら出向いて言葉をかけた。「わしはこの国の王となった。かねてお前の高名は聞いている。何な りと望みがあればかなえてつかわそう。」この言葉に対して、彼は「大王よ、私の望みは、王にどいてもらいたいだけです。折角の日向ぼっこが、王の影ででき なくなります。これ以外に望みはありません。」と応じたとのことです。

  大王はすごすごかえるほかなかったとの。犬儒派と称されますが、学校では犬のように人前でオナニーをするというとは教えてくれません。このことを知ると犬儒派といわれる所以がわかり、一生忘れることはないが、聞かなければよかったというのも本当のところです。

 

いなせな兄さんと小股のきれあがった女

 いなせとは魚の鰡(いな、ぼら)の背中のことです。いなの背中は黒く丸みを帯びてしまっているので長く見えるので、ちょうどそのように、さかやきにのる部分を結い上げたチョンマゲのことを「鰡背銀杏」といい寛政年間ごろから日本橋の魚商の若者の間に流行しました。やがて魚商のほかに、すし屋、そば屋、大工、左官などの職人もいなせなチョンマゲを結うようになり、その頭で職人のハッピ姿はまことにカッコいい江戸の若者です。いつか、そのスタイルを「イナセ」というようになりました。

 
「いなせ」と対応する女性のカッコいい姿は、「小股のきれあがった女」です。この語は、「いなせ」な兄さんたちが吉原のオイランに見かけた身のこなしカッコよさを、町内の娘やおかみさんたちに当てはめて言ったのが始まりです。
  すなわち、オイランは外八文字というエロチックな道中の歩き方をするが、それでいて裾が乱れない、これを「小股のきれあがった」と形容し、そういうオイランは部屋での立ち居振る舞いコトバつがいなど、まことにキビキビと気持ちが良い。小股はのろまの大股に対して敏捷な様をいうのです。今日のミニスカートの女性の魅力はまさに現代版「小股のきれあがった」女にほかなりません。小股をモモや脚の長短、はては女性器に解するのは江戸風俗を全く無視した独断です。インターネットにあふれる嘘にだまされてはいけません。

 

のろまの由来

  動作の鈍いことや、あまり賢くないことを「のろま」と蔑称しますが、これは寛文年間に、操り人形からでた言葉です。

  大薩摩浄雲の高弟の和泉太夫が、江戸の境町で操り人形の興行をしたときに、人形遣いの野呂松勘兵衛が頭の平たい色の青黒い卑しい身なりのバカに見える人形を 使い、これに対して、鎌倉左兵衛という人形遣いは、顔立ち身なりののきりりとした賢い感じのする人形を使かって、両者の賢愚の使い方の狂言が大好評を博しました。その評判から、おろかしい人間を、人形遣いの野呂松の名で呼び、あいつは、「のろまつ」だといい、これがいつか「のろま」となまって熟語になったものです。

ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムス

  東京駅の東側の出入り口を八重洲口といいます。その前の地名は中央区八重洲です。ここは、もともと八重洲河岸と呼ばれてました。オランダの航海士ヤン・ヨー ステンの屋敷のあったところで、その名をもじり八重洲と言うのです。同様にヤン・ヨーステンの仲間の航海長イギリス人のウィリアム・アダムズは、日本名を 三浦安針といったので、その屋敷跡の魚河岸を安針町といったのです。アダムズもヨーステンもオランダ東インド商会の東洋貿易開拓船「リーフデ」号の乗組員 で1598年オランダを出帆し南米をまわり太平洋へ出たのですが難航し1600年(慶長5年)4月豊後(大分)の海岸へ漂着したのです。家康は難破船の漂 着を知るや船は堺へ回航させ、アダムズらを大阪城へ招いて海外事情を詳しく聞きます。この年8月関ヶ原の合戦で勝ってから家康の天下となり、アダムスらを 江戸に永住させ、造船や西洋貿易の実務に当たらせました。これが機縁となり1609年オランダ船の平田入港とともに日蘭貿易が始まったのです。家康は、キリスト教の布教や侵略を伴わないオランダに好感をもったのです。ここのように教えられると忘れないでしょう。

ルイ14世とトイレ

ネットからおもしろい話をみつけました。こちら

100語でスタート英会話 do

Do you want to see the apartment ?   アパートを見たいですか。

Do you have time right now.    今、時間ありますか。

What do you think?   どう思いますか。

I don't believe it.  信じられない。

Do you like it?  どうですか。

Does it grab you? 気に入りましたか。

Do you want to take it ? ここに決めますか。


雪見酒マイクロソフトが嫌い

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雪見酒マイクロソフトが嫌い

日常見聞きしたおもしろい話をアップロードします。

まとめて、見たい場合は、目次か、右下の検索窓でsuzukikenzouで検索して下さい。

おかま将軍徳川家光

  江戸時代には、腎虚という病名が信じられていました。女色にふけると腎臓にたまっている特別な水がなくなりふらふらになって死ぬというもので、腎虚といいます。徳川家光がそうです。生まれながらの将軍と言って家臣を侮蔑していた家光は、少年時代に謡曲をならい自然に能役者を近づけ、能役者は男色をする不文律があり、いつか家光も男色にふけり、これは妻帯しても止むことはなかった。ある日千代田城の中奥の居間でほたる大名の異名をもつ堀田正盛とおかまを掘っていたところを春日局にみつかった。辺りには異臭が漂い異様な雰囲気。春日局は、ただちに襖を閉ざすと早く気に入る女をあてがわねば、お世継ぎもおぼつかないと決意したのです。

  こうして将軍のお風呂係としてあ振りの方、お夏の方をあてがった。やがて男色より女のほうがよほど好ましいことがわかり、この後はとめどもなく女色に溺れ た。その中の異色は、伊勢神宮の別当職にある慶光院の住職を側室としたことです。住職は尼僧で16歳、公家三条有純の娘で非のうちどころのない美人と言い伝えられてます。これが有名なお万の方で、春日局の後大奥の実権を握りました。

 大久保彦左衛門の諫言もうわの空の家光は35歳ごろに非常な頭痛に見回れ、政治をみることができなくなりました。そこで腹違いの保科正之を将軍代行として徳川の基礎を築きました。

  天下の馬鹿殿家光はその後十年腎虚による頭痛に悩まされ慶安4年48歳でなくなりました。この時大奥の女は千数百人いたということてす。これを日本語で「小人閑居して不善をなす。」といいます。学校で名君と教えられても歴史をありのまままに信じてはいけません。歴史は常に時の政権によって脚色されてます。

 家康の一言で「長幼の序」で世継ぎになりましたが、家康にしてみれば跡目争いしなければ馬鹿殿でもよかった。これ以降日本全国農家においても長男が家督を継ぐ制度が確立しました。徳川に馬鹿殿が多い訳が氷塊した次第。すべて光と影がありますネ。

武市半平太よ、仇は天が打ったぞゾ

  土佐藩主山内容堂は、武市半平太に切腹を命じたお殿様です。裏切られた半平太は、切腹を命ぜられ腹を3回切り直し意地を見せました。短刀を三方に置き直し、膝もくずさなかったと言われてます。

 山内は、好き者として知られ、側室を12名おいています。上記の高橋お幸は、遊女屋の白拍子「靜」で一舞12両という大変なスターで したが、どうしても水揚げしたいというので、いやがる靜を無理やり水揚げしまた。処女でなくなり白拍子としては売れないので花魁「今紫」になったのて゜す。山内は、よせばいいのに身請け話をして見事振られたというのです。殿様として面目まるつぶれ、遊女としての体は売っても心は売らないと啖呵が聞こえてきそうです。

  このような殿様ですから、いい死に方はしません。46歳で病気で苦しみに苦しみ抜きもがいて病没しました。これを日本語で「天網恢恢疎にして漏らさず」といいます。武市半平太よ、仇は天が打ったゾ

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110714-OYT1T00402.htm

花魁が初代女優

  我が国の女優は、常識的には明治末期の新劇の起こりと同時とされています。その女優は男優の中に混じって芝居をするのですから、新劇は男女混合劇と言っても よいのです。ところが、この男女混合劇は、明治20年ごろまでは許可されていなかったのです。江戸時代そのままに役者は男性に限るとされ、歌舞伎では男が女になる女形が必要だったのです。

  明治23年8月22日付けで警視庁は欧米各国の実状をみて「今後男女の俳優が合同して演劇を興行しても不問に付す」という訓令を発したのです。男女混合劇は、これ以降のことになります。女優第一号は、東京神田の三崎座で興行した旧劇派の高橋お幸です。高橋お幸は、吉原の遊女屋金瓶大黒の嬌名「今紫」という花魁だったのです。

  その枕席をあらそったのは、豪商雨宮敬次郎、政界の松方正義、西郷隆盛、伊藤博文、三条実美、山内容堂などです。貧乏人の娘を着飾らせて金持ちがよってたかっておもちゃにしようというのだからタチが悪い。


十返舎一九東海道中膝栗毛の死に様

東海道中膝栗毛の作者十返舎一九は、天保2年7月67歳でなくなりました。その臨終にさいして門人らに遺言として湯灌(沐浴)はやめてこのまま火葬にしてく れと言い置きました。門人たちはその言葉どおり、こときれると遺骸は着の身着のまま棺桶におさめ火葬場に運んで火葬にしました。棺桶に火がまわったときにたちまち起こる爆発音に門人たちは驚いて棺桶のふたをとると花火の流星が幾条もほとばしり出て一瞬火葬場は異様な光景に包まれまし た。まさに、一九の辞世の句「この世をばどりやおいとまにせん香の煙と共にハイ左様なら」を華やかに実演したことになり、ユーモア作家として面目躍如たるものがあります。一九は死ぬまえに懐におもちゃの花火を大量に仕込み、湯灌を禁じて火葬にさせたのです。生前のやんちゃぶりを彷彿とさせ、随分まわりの人を困らせたことが推測できます。

 

ロスチャイルド家の株買い占め

  世界有数の金融財閥ロスチャイルド家は、ドイツ人マイヤー・アムシェイ・ロスチャイルドの五人の子供から発展しました。その三男のネイサンは、イギ リスへ渡って帰化し、ロスチャイルド王国の基礎を築き上げました。そのきっかけは、ナポレオンのワーテルローの敗戦を予想した相場での大儲けでした。

 すなわち1815618日 ワーテルローでは早朝からナポレオン率いるフランス軍とウェリントン統率するイギリス、プロシア軍の交戦が行われ、勝敗はなかなかつかなかったが、夕刻に なりフランス軍は右翼を不意にプロシア軍につかれてから総崩れのきざしが見えた。この有様をオークモンの山上からみていたネイサン・ロスチャイルドは、急 遽イギリスへ帰り、駅伝馬をフルに活用して嵐のドーバー海峡を決死の船頭と共に渡り20日 の朝にはロンドン証券市場へ姿を現しました。彼は人々の問いに「プロシア軍ついにきたらず、ウェリントンは苦戦で危なかったから急いで逃げ帰ったのです」 と告げたから、ナポレオンの必勝を反映して株価が暴落。これをかねての手配どおり、買占め、やがてナポレオン失脚の詳報が入り、株価は急騰して売り抜けた ものです。

   これを汚い儲けかたと言うのは議論の分かれるところですが、とにかく「生き馬の目を抜く」ような儲け方をして発展してきたのです。相場にはご用心。

歌舞伎の市川家と成田屋

 歌舞伎十八番は市川家の創造になる荒事の多い芝居ですが、これは初代市川團十郎に起因します。江戸時代の初期に下総国(千葉県)成田郷市川村に堀越重蔵とい う侠客がいました。侠客とは博徒のことでのちにやくざとも称されます。この堀越重蔵が江戸へでて、侠客仲間とまじわるうちに、慶安四年に一子をもうけました。これが初代市川團十郎です。幼名を海老蔵といい、長じて歌舞伎役者になり、出身地の名をとって市川團十郎と名乗ります。25歳のとき木挽町の山村座 で、曾我五郎時宗の役の工夫で成功しました。

  実子の九蔵が二代目團十郎をつぎ、成田の不動尊へ願をかけて成功したので、この二代目から屋号を成田屋と名乗ることになりました。近頃のニュースを目にすると血は争えないということです。

  

江戸職人の労働時間

 近代的な労働時間は、8時間です。これは、1886年5月1日アメリカの労働者がゼネストを行って獲得し、その記念日がメイデイであることはあまりにも有名です。

江戸の職人には、そりより以前幕府によって公認された8時間労働があったのです。

幕令抜抄によりますと、大工、左官などの職人が集合して仕事にかかるのが五つ時(午前8時)で、四つ時(午前10時)には、小憩3分(36分)をとり、九つ 時(正午)に昼食をとる。この昼食の休憩は、四分(48分)、午後には、八つ時(午後2時)に小憩3分をとり、終業は、暮れ六つ時(午後6時)です。

これをみますと休憩は午前午後で2時間、労働時間は、8時間となります。この伝統は現在の東京の大工、左官に受け継がれています。


おかま将軍とホタル大名

 ホタルはお尻が光る、ホタル役者とは男色の相手となる女形のことですが、ホタル大名もいました。徳川家光の相手をした酒井山城守重澄と堀田加賀守正盛で、その功労により3万石の大名に取り立てられてます。家光は、将軍就任にあたり「祖父、父はお前たちと同輩であったが、オレは生まれながらに将軍゛だによって 今後お前たちには少しも遠慮はしない」と見えきったと伝えられてます。色道も裏表両道の名将軍ぶりです。

   家光は少年時代の自慰の悪癖から男色を好み、この変態は妻帯し将軍になってからもぬけれなかったといわれてます。このお相手を努めたのが上記大名です。オカマで出世したので「オカマをおこす」という語が、出世と同義語のように当時の流行語となりました。人の口に戸はたてられません。300年後もおかま将軍と侮蔑される所以です。女色も死ぬまで溺れたというのですから、まさにお猿さんの類です。

子午線、時差の起源

  19世紀も半ばを過ぎて海上に汽船が、陸上に汽車が走って海陸の交通が国際的に頻繁になると世界の時間を一定の時差で統一する必要が生じ、1884年に24ケ 国の代表がワシントンに集まり、世界の「時」の原点を決める会議を開きました。アメリカの代表は、当時世界第一の開運国で、海図の大部分を製作し、正確な 航海時計の保持国という理由から、イギリスを原点とする提案をし、それに決定しました。そしてロンドン郊外のグリニッチ天文台のある場所を子午線の起点と したのです。そこをゼロとして地球は、360度の子午線で被われることとなり、その一回転が1日で24時間ですから1時間は15ど地球が廻転したこととな ります。そこでグリニッチから地球の廻転に従って東へ15ど進む毎に1時間ずつプラスし、西へは1時間ずつマイナスの時差にします。そしてそれらがつきあ う太平洋の真ん中の180度のところを日付変更線として24時間補正をすると、世界中どこでも一定の時差で正確の時間が測れます。ちなみに日本では、東経 135度の明石を通る子午線が標準となりイギリスとは、9時間の時差があります。

明治政府の江戸っ子てなづけ

 江戸無血開城後、天皇が入城したのは明治元年10月13日です。江戸は東京へ、江戸城は東京城へ呼び名を改められました。このような政府のやり方に不満をもつものも多く、落書きに「 上からは明治だなどというけれどば、下からは治明(おさまるめい)と読む」とあります。

このようなレジスタンスを宣撫するために11月6、7日を休日として酒を全市民にふるまった。1562樽の酒が、1592町に分配され、盃が全戸に配られた。これを天盃と称して喜び、おおいに浮かれてミコシ、ダシがでたほどです。

政府の市民宣撫工作は功を奏して天皇は、この年いったん京都へ戻られ、翌明治2年東京に住まわれ東京は都となりました。市民は驚くほどてなづけやすいことが分かります。

時は金なり

  慶応義塾大学の図書館の大時計には、一時から十一時までの時計文字の分ところへ、ラテン語のテンプス・フギット(Tempus Fugit) の文字が一字づつ置かれてます。意味は「時は逃げさる」。時間の大切なことを教えるもので、英語のタイム・イズ・マネー(時は金なり)と対照的です。ラテ ン語の警句は、朱子の「少年老い易く学成り難し」に通じる多分に精神的なものですが、タイム・イズ・マネーは、十九世紀英国のリットン卿の小説「マネー」 の中で用いられた言葉だけに、資本主義勃興期の実利的な感じがします。わが国では明治以来この実利的な「時は金なり」を標語として、時間励行を勧めてきま した。日本人の時間励行観念は世界一ですが、1分遅れて我慢てきないセッカチは、世界的に見ると少し変です。今や会社においては毎週決算となってます。定年まで走り切れますか。他国にこの観念を押し付けるとやってゆけません。沖縄時間が世界標準です。沖縄時間とは7時集合とするとそれから30分位して皆が集合する時間の観念です。経営学的にいうと時間と労働が密接に結びついた結果、労働からスラッグ(余裕)を取り除き労働密度を高め、人間がロボット化しているとなります。資本論的に言うと資本の有機的構成を高めて剰余価値を創出し、労働者を搾取するとなります。新自由主義的に言えば筋肉質にして労働生産性を高め世界競争に勝ち抜くとなります。ロハス的にいうとそんなに急いでどこへ行く、もう少し力を抜いたらとなります。ともあれ、「時は金なり」は世界的には受け入れられた考えではありません。うつ病が増える現状を見るにつけ見直してもよい考え方です。

 

種子の寿命はどれだけ

 米麦を初めとする穀物や果実の種子の寿命はどれくらいか、つまり発芽能力を持ち続けるのは何日ぐらいか、ということです。植物学者の研究によりますと、一番寿命が短いのは柳の種子で2週間です。大体穀類や園芸食物の種子は1,2年から長くて5年、特に日本のように湿気の多いところでは寿命は一般に短い

  湿気の少ない欧州ではベルゲルという学者の研究ではマメ科の食物で80年、アオイ科で64年、ハス科で54年 という長期保存のもので発芽した記録があります。湿気の多い日本でも泥炭地深く埋没していたハスの実は二千年の寿命を保ちます。ハスの実は空気を通さない 堅い皮に覆われており、中の果実の呼吸が極めて緩やかに行われるため、それによる炭酸ガスのたまる量は非常に少なく、果実の致死量に達するまで少なくとも 百年以上かかるのです。それゆえハスの実は皮が傷つかない限り数百年の寿命を保つのです。

 

役得とホマチ

 吉原川柳に「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ」とよまれるように、江戸時代の封建社会では政権や権威のあるところに賄賂はつきもので、それを役得と称して別に悪徳と思わず、しごくあたり前の慣行とさえなっていました。京都の御所では、日用品の購入のほかに、天皇への献上品がありますが、それらを扱う役人や女官の全部に、ピンはねの役得があり、江戸城でも同様のことがあり ました。江戸や大阪では警察権をもつ町奉行や与力、同心が、その役得で贅沢な生活をしていたのですから、今日の常識では想像もできません

   役得は、役人だけでなく民間でも権威や独占の存するところに生じました。当時の輸送は船が主ですから、それに携わる船頭は、積荷から名目を設けて現物を取得する役得があったのです。

   まず多いのは米俵にサシを入れて米を公然と抜き取る「荷こぼれ」があり、その他の貨物では積み込みの量より多く現物を数えて、その差額を取得する「切り出 し」、同じ貨物を他から少量積んでヤミ運賃を稼ぐ「ハマチト」、船が風待ちをしている間、その船で内密に運送して稼ぐ「帆待ち」、後には、契約の積荷以外 に船に空きがあれば、そこへ他の荷物を積んで運賃は船頭の収入となるという船主との暗黙の了解もできたほどです

このホマチの語は今日でも生きており、給料以外の特別なかせぎなどを称します。

 

思惑買いから米騒動はおこった。シベリア金塊

 第一次大戦末期の大正7年 (1918)8月に決行されたシベリア出兵は功罪があります。この出兵は、アメリカと連合軍の承認のもとに行われたもので、オーストリア軍のチェコ・スロ バキア軍団がロシア軍へ投降した後、レーニン革命軍に虐待されており、救援することが目的でしたが、7月頃からシベリア出兵が問題となり、米穀商が軍穀を 見込んで思惑買を始めたために8月には150銭になって、米騒動がおこったものです。シベリアの反革命の臨時政府は、金塊3万フード(1フード17キロ)を保有しており、当時の金額で93千万円となります。これがシベリア金塊で臨時政府が赤軍に惨敗してから、行方が不明です。あなたも調べてみませんか。

 

重さは一様ではない。

  物の重さは地球の重力によって生じますが、その重力は地球の自転による遠心力や地軸、地磁気の関係などで地球上どこでも同じ重さというわけにはいきません。特に南北に長い日本では北と南では重さにわずかな相違を生じます。

  通産省の地理調査所が昭和27年から全国百箇所にわたって調査したところでは北海道と九州では1キログラムにつき約1グラムの差があり、九州のほうが1グラム軽いのです。地軸に近い北になるほど重くなります。特に根室付近では重くなります。東京で1キロのものが1キロ1グラムになります。これはこの付近の地下に重い鉱物が埋蔵されているからだろうと推定されています。知ってましたか。

 

糟湯酒(かすゆざけ)庶民は昔から安酒を飲んでいた。

   万葉集巻五に収められた山上憶良の「貧窮問答歌」ほどうら悲しく、また酒の階級性というものを感じさせるものはありません。曰く「風まじり、雨降る夜の、雨まじり、雪降る夜は、術もなく、寒くしあれば、堅塩を取りつづろい、糟湯酒、うちすすろいて、咳ぶかき、鼻びしびしに・・・」とあります。ここに言う糟湯酒とは、酒の糟にお湯を混ぜた酒とは名ばかりの飲料で、あら塩をなめながらすするが、咳、クサメが出てしょうがないというものです。

   濁り酒を少しでも澄ますために麻袋に入れて絞った糟ですから、今日の清酒の酒粕とは比較にならないほどお粗末なものです。奈良時代にはこれが庶民の酒だったのです。

  戸時代初期、芭蕉と同時代の伊丹の俳人鬼貫(おにつら)は、「賎(しず)の女や袋洗いの水の汁」と詠んでます。伊丹は関西では有数の酒造地ですが、そこの 酒屋で新酒を絞った袋を洗う仕事は近所の女房たちがやり、その洗った水はもらって亭主に飲ませる風習がありました。鬼貫の句はこれを詠んだものです。奈良 時代の糟湯酒と同様のもので、庶民はなかなか澄んだ酒にはありつけなかったのです。現代ではビールのかわりに発砲酒というところです。

 

黄門様の世継ぎの経緯

 徳川ご三家の一つで副将軍として重きをなした水戸の徳川家は、家康の第十一子頼房が始祖です。母は側室のお万の方。この頼房は父家康をしのぐ好色家ぶりで、側室にこしらえた子供は、男女あわせて27人 です。その中で三代目をついだ光圀は、第七子にあたり、男だけの順では三番目、無論側室の出で、母は、谷左馬介の女です。妊娠すると、水戸城下に住む重臣 三木仁兵衛に預け、頼房は、「水になし申すよう」と三木に命じます。つまり堕胎してしまえ、というのですが、三木はその命に従わず出産させて養育し、幼名 を千代松と称しました。

   頼房は、あまりに側室の子供が多く、その生母間の対立もあって、三十六歳になっても世嗣の決定をしなかったので、寛永十年に三代将軍家光は老中中山備前守信吉に命じて、水戸家の相続人を決定させます。

その時、大勢いる子供の中で、六歳の千代松は目立つ存在でした。この少年は中山に向かって「爺い」と呼び、あわびノシを取って与えます。これにすっかり気をよくした中山は、「お様子御すぐれ遊ばされ候」と家光に報告して千代松を相続人に決定してしまいました。

この少年が後の徳川光圀です。水にされなかったからこそ、「大日本史」を生じ、中納言の隠居の唐名黄門様を独り占めにして、講談、演劇の種を世にまくことになったのです。

 

酒を愛した芭蕉と宝井其角

 聖松尾芭蕉は、酒飲みですが、酒豪ではありません。酒も俳句をなす自然の一部として愛しました。その酒は、「花に浮世酒白くして飯黒し」すなわち白い酒と は濁酒です。黒い飯とは玄米です。芭蕉が活躍した元禄時代は、清酒は高級品で句の選料などもらいだめで生活する芭蕉の手には、なかなか届かなかったので す。ところがある裕福な町人の弟子から、清酒の二升樽が送られました。芭蕉は、大変喜び「月花もなくて酒のむひとりかな」とこの清酒を長い間チビリチビリ と愛飲し「飲みあけて花いけにせん二升樽」と詠んでます。

   芭蕉の弟子に酒飲み は多く、中でも宝井其角は、酒豪として知られ「酒を妻妻を妾の花見かな」と、奥さんに愛想をつかされ、追い出されそうな句を詠んでます。これを心配した芭 蕉から其角に手紙を書き文末に、「朝顔に我は飯食う男かな」と止めの句を入れて締めくくりました。これの句意は、わしはお前のように朝酒は飲まないという意味です。

   仲秋の名月に芭蕉と其角は、大川を小舟で上下し月を賞で酒を酌みましたが名句は出ませんでした。其角は、家に帰っても寝られぬままに庭でフト浮かんだのが名句「名月や池をめぐりてよもすがら」です。今後も何百年も語り継がれる句です。

 

職人と怪我なし

  坊主にされたおかみさんたちを見た先達が「皆なお毛がなくて(お怪我なくて)めでたい。」とは古典落語大山詣での下げです。女性器の無毛も怪我ないに通じて 縁起がよいと喜んだのは江戸の職人です。そのため、遊女は脱毛に苦心したものです。川柳に「売り物は草をむしって洗う鉢」とあります。

 

いっちょやるか、ポン引きの由来

  囲碁、将棋、花札、麻雀などをするときに、このごろはトント聞かなくなりましたが、昔はよく「いっちょやるか」といったものです。この言葉には、600年の 由来があり、南北朝時代頃の飲茶博打(闘茶)に始まります。それには二通りのやり方があって、唐茶と称する赤っぽい茶をフタのついた椀に盛り、それに茶柱 がたっているか、いないかに金銭をかけるものです。今一つは、本非と称して、茶を人民はは一口飲んで、それが明国産か、日本のどこの産かを言い当てる賭け です。この本非の茶博打に客を呼び込む男衆のことを「本非引き」といったものが、いつかなまり「ポン引き」となったものです。これは今日でもいかがわしい ところへ案内する男衆に用いられます。

   この茶博打は、宮様もなされ伏見宮貞成 親王(ふしのみやさだふさしんのう)の日記によると「茶をもって一献献ずるに七所の茶あて、各掛け物をとりあう」と漢文で記されており、そのはじめに「一茶遣可」と書かれています。これが「いっちょやるか」になって、勝負ごとの始まりの言葉となってものです。

 

酒は百薬の長は2千年前のコマーシャル

 一世紀の初め頃、中国には前漢と後漢との間に14年間つづいた新という王朝がありました。これは前漢の外戚にあたる王莽が、前漢の幼帝を退けて自ら帝位につ いて建国したものです。その政治は中央集権的な国家管理を強めたもので、ことに塩、酒、鉄は政府の専売としました。その布告に「それ塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の本」(漢書、食貨誌)とあります。すなわち、塩は、調味料のもと、酒はどんな薬よりも心身にきき、宴会になくてはならないも の、鉄は農工用具のもと、ゆえに人民は大いに用いるべし、というものです。政府の役人と商人が賄賂で腐敗したので人民は苦しみ、やがて内乱がおこり新は滅 亡しました。しかし、王莽の残したコマーシャル「酒は百薬の長」は口調もよく、2千年後の現在までも残っています。


桐のタンスは燃えにくい

  桐は育ちが早いために年輪の幅が広いので、木肌はろうのように滑らかで、その中はスポンジ状の細かい空洞がたくさんできていて、湿気を吸いやすい。この特性 は家具にして防火と防湿性を兼ね備えることになるので高級和服を保存するタンスにはもっともよい材質となります。さらに桐のタンスにしまっておけば、梅雨 どきの湿気はタンスの抽出しが吸湿して開きにくくなって中の品物には防湿作用をして、火事の場合は吸湿で燃えにくいので中身が助かる。防火の水がかかれば 中身は安全。この事実から耐火金庫の中の引き出しには必ず桐材が用いられます。

麝香じゃこうについて

  動物性の香料を原料とした香水は、性的な魅力や興奮をかきたてるものです。その原料は麝香(じゃこう、ムスク)です。これは、中国の雲南やチベット、インド 北部の三千メートルの高地やシベリア、北中国等の寒冷地に棲息する麝香鹿の牡の香のうからとるのです。香のうは、へそと生殖器の間にあって生殖器からの強 い香気をもつ分泌物を貯え、交尾期には、その芳香に雌を誘います。麝香はごく微量でも強い芳香を持続しますので、高級な練り香や香水になくてはならない原料です。動物性の香料にはこのほか、麝香猫(じゃこうねこ、シベット)と竜涎香(りゅうぜんこう、アンバー)があります。

   麝香猫は、インド、フィリピン、アフリカ、ジャワ等に棲息し、その生殖分泌物のたまる香のうを取ることは麝香鹿と同じです。竜涎香は、動物性香料のうちで、 もっとも上品な芳香をもつものです。南太平洋、インド洋など熱帯の海に漂流しているロウのような物質です。竜のヨダレとはよく名づけたものです。抹香鯨の 体内から発見されたことがあり、この鯨の結石とされます。

横山武一と中村健次郎

  動物の腎臓の中で合成されるアンモニアを人工で合成して窒素肥料を作ろうとするのが空中窒素固定法によるアンモニア合成で、1908年独乙の化学者フリッ ツ・ハーバーが発明しました。原料は空気中の窒素と水を分解して取り出した水素を用います。1913年に工業化ました。方法は、窒素と水素の混合ガスを 300気圧、500度にして触媒の白金を作用させると化合してアンモニアになるものです。しかも高価な白金は少しも損傷しないのです。独乙は、当初アンモ ニアから肥料ではなく、硝酸をつくり火薬の原料としました。

  人造肥料の硝酸アンモニウム(硫安)は、 1919年独乙ロイナ工場で世界最初の生産が始まりました。我が国においては、初め外国技術を導入して生産を昭和6年川崎硫安工場(後の昭和電工)におい て国産硫安が生産されました。この陰には、青年技師横山武一と中村健次郎が当時京都帝大に一つしかなかったハーバーの論文をたよりに数年の研究の苦心が秘 められています。

  高温高圧の窒素と水素に白金を触媒として作用させてアンモニアを作成するのですが、この触媒作用は、人体でも行われており、食物が消化吸収されるのは種々の酵素による触媒のためといわれてます。

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